『ドゥルーズ 流動の哲学』宇野邦一 1/4

ベルクソンスピノザニーチェ

・生命は進化し、新しいものを生み出す。生命がおこなう選択は、予見不可能で不確定な性質を持っているが、「変化しようとする傾向」そのものは決して偶然的ではなく、生命それ自体がそのような傾向をはらむ「潜在性」として存在している。人間が新たな価値や意味を生み出すこともこの潜在性の延長線上にあるが、人間はまた多くの否定や反動の傾向を生み出す保守的な存在でもある。
 潜在的なものが「現実化(現動化)」されるとき、そこにはある予見不可能な不連続、すなわち差異を生み出す。差異化は、物質が持続となり、記憶となっていくプロセスそのものでもある。(61)
・ひとつの身体(あるいは物体)は、決してその形態や機能によって決定されるのではない。音楽が、たえず変動する音の微粒子の速度と強度によって規定されるようなものだ。ひとつの身体は、固定した形態や器官や機能によって決定されるのでななく、形態も機関も機能も、無数の微粒子の運動と静止、速さと遅さによって、刻一刻規定されているだけである。こうした微粒子の広がりは、基本的に輪郭をもたず、他の微粒子の広がりと交錯し、たえまなく触発し、触発される。
 スピノザの「エティカ」にひとつの目標があるとすれば、この身体が触発し合う「平面」を新たに構築することである。(80)
・「何が真理か」ということよりも、「誰が真理を欲しているのか」、「なにゆえ真理を求めるのか」を問うことによって、ニーチェは哲学の原理的な、暗黙の前提を解体し、哲学が沈黙していることを白日の下にさらすようにしてしまった。
 あるものの意味あるいは価値を知ることとは、そのものがどんな「力」によって占められ、うながされ、どんな「力」を表現しているかを知ることである。(96)
・思考は、意識よりも理性よりも上位に立たなければならない。理性は(そして意識も)、思考の能動性を制限し、思考を服従させるように機能するからである。ニーチェにとって、神、人間、主体、道徳のようなカテゴリーは、すべて意識と理性を貫通する反動性によって制作されたものである。(101)
・この反動的な力に基づく既成の権力や能力から離脱し、別の力に満たされた人間がドゥルーズにおける「超人」。この超人は、どんな英雄、天才、教祖、支配者とも異なる、時間の現実を忠実に生きる、慎ましい人間のイメージを提出している。(105)