『ドゥルーズの哲学原理』 國分功一郎 3/3

第Ⅴ章 欲望と権力

 ドゥルーズは、フーコーの著作を言説的編成と非言説的編成の関係から読み解く。例えば『監獄の誕生』からは、「非行性」を巡って、両者が相互に影響し合いながら、対策が進められていくさまを読みとる。(186-191)
 フーコーにとって根源的なものは「権力」であったが、D&Gにとって、それは「欲望」だった。権力は「欲望のアレンジメント」いよって生まれるものにすぎない。例えば学校の試験について、学習成果の可視化が生徒たちを動かすのは、生徒たちの「自分だけ取り残されたくない」という欲望が前提となっており、この欲望のアレンジメントが社会に行き渡っていなければ、「試験」という権力装置は作動しない。(214-216)
 権力という概念では、「本当はやりたいこと」があるのに、それを抑制し「実際にさせられていること」がある、という考え方を振り払うことができない。しかし、「本当はやりたいこと」も決して自然発生的なものではないのだ。だからこそ、ドゥルーズは欲望に注目する。身体刑を見に処刑場に来る民衆や、規律訓練や監視に従う労働者や生徒は、従うことを強いられているわけではなく、そのように行動したいという欲望を抱いているのだ。(219-220)