『八月の光』フォークナー 黒原敏行訳 2/5

 (ハイタワーの独白)人はもう起きてしまった面倒よりこれから起きるかもしれない面倒のほうを怖れるからだ。変わることは危ないことだから、慣れている面倒にしがみつくんだ。そう。人は生きている人たちから逃げ出したいとよく言う。でも本当に厄介なのは死んだ人たちだ。死んだ人たちはひとつの場所で静かに寝ているだけで人を引きとめようとしたりしないけれど、逃れられないのは死んだ人たちからなんだ。(110)
 バイロンと向き合っているハイタワーは、まだ恋という考えを頭に思い浮かべてはいない。ハイタワーはただ、バイロンがまだ若く、ずっと独身のまま勤勉に働きつづけてきたことを思い出すとともに、バイロンの話しぶりからすると、自分がまだ見ていないその若い女は少なくとも何か心を騒がせるものを持っているようだが、バイロンはまだ自分の気持ちを同情としか思っていないらしいと考えるだけだ。(120)
 (クリスマスの幼年時代)彼が嫌ったのはきつい労働ではない。理不尽な罰でもない。そういうものには、この夫婦に会う前から慣れていた。それよりいい目に遭おうなどとは期待していなかったから、腹も立たないし、驚きもしなかった。嫌いなのは女だった。あのやわらかな優しさだった。それには一生の間つきまとわれるような気がして、男たちの酷薄で無慈悲な正義よりも憎んだ。(242)
 (クリスマスの少年期)ひざまずき、死んでいく動物のまだ温かい血に両手を浸して、がくがく震え口の中をからからにし、しきりにうしろを振り返った。それから動揺を克服し、立ち直った。これであの少年が話したことを忘れたわけではなかった。ただそのまま受け入れることにしたのだ。……判った。そういうことだな。でも俺には関係ない。俺の人生にも俺の恋にも。これが三、四年前のことで、ジョーはそのことを忘れてしまっていた。ある事実をうそでも本当でもないと頭の中で言いくるめてしまった時、人はそれを忘れてしまったと言える、という意味で、忘れてしまっていた。(265)
 「いえ」とバイロンはいう。それから小さく身じろぎをする。彼もまたリーナと関わり合うことの不都合に眼醒めつつあるような話し方になる。「そうじゃなければいいなと思ってます。俺は自分で正しいと信じることをやろうとしてるんだと思います」――『ああ、この男は今初めてわたしに嘘をついたな』とハイタワーは思う。……『たぶん自分自身に対してですら、今初めて嘘をついたんだ』……『いや、まだ嘘になっていないかもしれないな。この男自身、それが嘘だと知らないのだから』(441)