『八月の光』フォークナー 黒原敏行訳 3/5

 (クリスマスの彷徨)彼はこの土地で育って大人になり、泳げない船乗りが水に突き落とされて泳ぎを覚えさせられうように、身体の形も物の考え方もこの土地に無理強いされて形づくられたのだが、この土地の実際の形や感触は結局何も知ることはなかった。この一週間、この土地のいくつもの奥まった場所へ密かに潜り込んだが、大地が従わなければならない普遍の掟には無縁のままだった。しばらくの間、休みなく歩きながら、俺が求めていたのはこれなんだと思う――物を見ること、物が見えること――それが安らぎと、余裕と、穏やかさを与えてくれるのだと。(485)
 町の人たちはただ、「あの夫婦は頭がおかしくて、黒人のことでいかれた考えを持ってるんだ。もしかしたら北部人(ヤンキー)かもしれない」と言うだけで放っておいた。あるいは町の人たちが大目に見ていたのは、ハインズが黒人たちの魂を救おうと献身しているからではなく、夫人が黒人たちから施しを受けているのを自分たちが見て見ぬふりをしていたからかもしれない。人間には良心が受け入れない事柄を無視するという都合のいい能力があるからだ。(489)
 今、バイロンはようやく知った。自分が何か眼隠しのようなもので現実を見ないようにしてきたこと、その眼隠しで身を守ってきたことを。その容赦ない厳粛な事実に驚きながら、バイロンは思った。ミセス・ハインズに呼ばれ、彼女の声を聞き、顔を見た時、初めて俺は、彼女にとってバイロン・バンチなんて無に等しい人間だということ、そして彼女が処女じゃないことを、知ったんだ。(573)
 なんと俺は今までブラウンが彼女の男だと本気で信じてなかったんだ。自分のことも、彼女のことも、この件と関わりになったどんな人のことも、言葉の上でしか考えてなかった、実のない言葉の上でしか。……そうだ。今やっと俺はあのブラウンが彼女を孕ませたルーカス・バーチだと信じるようになったんだ。ルーカス・バーチって男がほんとにいるってことを信じるようになったんだ。(574)
 (ハイタワーの回想)父親は自分が反対する奴隷制度を維持しようとした南部連合軍の戦いに積極的に参加し、そのことに矛盾を感じなかったが、それは父親の中に互いに完全に独立したふたりの人間がいたことを示す何よりの証拠だった。そしてそのふたりのうちのひとりは自分の原理原則をすがすがしく守り、理想の開拓時代という実在しない空想の世界に生きていた。(676)