『八月の光』フォークナー 1/5

 4月に一週間ほどとった休暇、その後の5月の連休を利用し、このフォークナーの名作を再読した。
 おそらく、古典と呼ばれる長編小説を読むのは、今年はこの一冊だけだろう。そう考えると、小説を読むという行為は、自分にとってずいぶんとしんどいものになったものだ。
 今回読んだのは、光文社古典新訳文庫から2018年に発表された黒原敏行訳。以前、2006年に読んだのは新潮文庫加島祥造訳。加島訳の文庫本で、ページの端を折った個所も改めて読んでみたが、当時、自分がどのような文体に魅力を感じでいたか、なんとなくであるが傾向が読み取れる。また、今に比べ自分の性格がしっかりしていなかったせいか、気にいった表現をすべて記憶に残しておきたいと思っていた当時の自分の性格も分かる。
 その一方で、両訳の文庫本を見比べると、何箇所か、共通のページを折ってもいて、これは自分の性格があまり変わらないからなのか、誰が読んでも感心する箇所だからなのかは分からない。
 このような部分を読み比べると、加島訳では、表現を曖昧にし、におわせているような所を、黒原役は意訳により事実をあらわにしていることが分かる。おそらく、直訳では加島訳に近くなるのだろうが、黒原訳でないと、その意味が分からなかった箇所もある。また、黒原訳で読み、再度加島訳で読みなおす事で、小説の味わいが深まるということもあるだろう。黒原訳は、読みやすい一方で、少しあからさますぎる、ミもフタもないきらいがあるのだ。それにしても、翻訳文体が違うだけで、登場人物の性格まで違って見えるから不思議だ。
 最初の話に戻るが、かつても長編小説は数週間かけて読んでいたわけだし、読破までにかかる時間はそう変わらない。今読書が大変なのは、こうやって引用をつらつら書き連ねたり、感想を文章に残したり、かつて読んだ翻訳と読み比べたくなったりするからなのだ。
 読書体験を充実させるには、ある程度の面倒も必要。そう考えれば、手間暇かけ、長い時間を過ごすのも、悪いことではない。