『ひらがな日本美術史1』 橋本治 1/3

埴輪

 いたって日常的だった「戦い」と「呪術」が、「国家」という特殊なものの特殊な部分として集約されて来る。それを「国家による独占」と言う人もいるだろうが、民衆の側から見れば、「国家による肩代わり」だ。邪悪な霊と恐ろしい外敵に対して、「国家」という自分たちとは直接に関係のない機構が、専門的に対処してくれるのなら、これほど楽なことはないのだから。「モチはモチ屋に」である。
 縄文時代と一線と画してしまった弥生時代古墳時代の表現の平明は、そういう「大掃除」の結果だとしか、私には思えない。(21)
 埴輪を見た時に感じる不思議な温かさは、やはり「幸福」と言ってよいようなものだろうと、私は思うのだ。(22)

 人は、仏に向かい合い願うことによって、「願う」という願望を持つ「個人=己れ」の存在を知る。「願う」ということによって、「己れ」というものの存在を知り、そのことによって、己れのままにはならない「現実」なるものが、己れの外側にあることを知る。「救われる」ということを知り、「願望する」というこ/とを知った個人は、やがてその先、その欲望を基にして、現実なるものの中で「ドラマ」なるものを演じていくようになる。
「寺」が作られた時、まだドラマはなかった。それを知るものさえもほとんどなかった。多くの人間にとって、「願望」とは、まだ胸の内の奥深くに秘められているだけのものだった。それはまだ「なんだか分からない混沌」で、やがて育って「ドラマ」となっていくようなものは、まだ「なんだか分からないもの」のまま、「寺」という不可思議なものをぼんやりと見ていた。それが、日本に於ける「寺」の初めなのだと、私は思う。(42)

法隆寺釈迦三尊像

 六世紀中葉の仏教伝来から大家改新までのほぼ百年――聖徳太子の時代と言ってしまってもいいような飛鳥時代から、天智天皇の時代の白鳳時代になって、仏教の定着・理解が起こって来た。ここに至って、やっと仏教も日本人のものになろうとして来たのであろうと、私は思う。その意味で、飛鳥時代の仏像は、どこまでいっても、゛まだ外国の宗教の像゛であろう。ここではまだ仏は観念で、観念であるがゆえに、平気で肉体を持たない。(49)
 ゛日本的゛とは、゛なぞる゛という過程から生まれた、既に調和を持って完成しているものを更に柔らかくソフィスティケイトしていく方向性なのだ。だから、そこから゛自由な造形゛へと向かった《救世観音像》は、リアルで柔らかな肉体性をもつ。だから、゛それを更になぞる゛という逆行を持った《薬師如来坐像》の衣紋はギクシャクとしている。そして更に言えば、《薬師如来坐像》の顔は、それがなんだか分からないままに、ただ《釈迦三尊像》の顔を写してしまったような、あいまいさに満ちている。(62)