『八月の光』フォークナー 加島祥造訳 5/5

 (クリスマスの幼年時代)ランプの芯の上では炎がゆっくりと燃えつづけ、壁には、舞っている蛾の影が小鳥ほどの大きさにゆらめいた。窓の外から流れこむ空気に彼は闇を、春を、大地を嗅ぎ、感じとることができた。(202)
 (クリスマスの少年時代)いわば彼は、矛盾しているが恐ろしく静かな調子でこう言ったかのようだった。よし分かった。じゃあ、そうなんだな。しかし俺にはそうじゃないぞ。俺の暮しや恋愛の中じゃあ違うぞ。とにかくこれは三、四年前のことであって、彼はもう忘れてしまっていた、ただし忘れたというのは、一つのことが真実でも噓でもなくてただの事実にすぎぬと納得した後では簡単に忘れられる、という意味でだが。(242)
 (クリスマスの少年時代)とにかくその夜、彼は出かけていった、あの家は暗く眠っているだろうと予想しながら――。その家は暗かった、しかし眠ってはいなかった。彼はそれを知った、彼女の部屋の暗い窓覆いの向こうでは人間が眠っていない、それに人間は彼女ひとりだけではない、と知った。どうやってそれを知ったのか、彼自身言えなかった。また彼は自分の知ったことを認めようともしなかった。(260)
 それは秋へ移る頃の夏、すでに傾く日のつくる影のように、冷たくて無慈悲な秋の味が夏の中に混じっているのに似ていた、それは衰えた夏の残りが、消えそうな石炭のように、秋の中でふたたび火を発するのに似ていた。(340)
 (クリスマス)現在の女とウイスキーのことを考えると、彼は自分がウイスキーを売るのも金のためではなく、それは自分をつつみこもうとする女からいつも何か隠しごとをしたい性質のせいなのだと言いたい気持ちだった。(341)
 『人間というものは、たいていのことなら我慢できるもんだなあ。……人間は何かの場合、それがいかに自分にとって耐えられないことかと考える忍耐さえあるんだ。気をゆるして泣いていいときにさえ、そうしないで我慢できるんだ。振り返ろうと振り返るまいと自分には何の役にもたたないときでさえ、振り返らずに我慢できるものなんだ』……よろしい、君は悩んでいると言う。よろしい、しかしまず第一に、それはただ君自身の口から出たことでしかないぞ。そして第二に、君がバイロン・バンチだというのは、君自身の口から言われたにすぎん。第三に今日、いま、この瞬間に、自分をバイロン・バンチと呼んでいるのは君ひとりしかおらん……『そうさ』彼は考える。『もしそれっきりのことだとすれば、振り返らずにやせ我慢なんかしてることはないんだ』。彼は騾馬を止め、蔵の上で振り返る。(548)
 (ハイタワーの回想)いま彼の見まもるらしい自分自身とは、抜け目なく忍耐づよく巧みに出し抜いて、自分が不平もいわずに人々から追いたてられているとみせかけている姿であって、実は彼はこういう状態を神学校へ入る以前から欲していたのだが、それは当時の自分にさえ認めなかったことであった。そして彼は、まるで豚の群れの前に腐った果物を投げるように、なおも偽装のための餌を与えつづけたのだ、――すなわち、彼は父から得たわずかな収入をあのメンフィス市の孤児院に分けつづけた――また自分を迫害にさらし、夜中にベッドから引きずり出され森の中に連れこまれて棒で殴られ、……彼は官能的で勝ち誇った喜悦とともにあの仮面を持ちあげた。ああ、これで終わった。今はあれも過ぎた。今はあれも償われ、支払われた。(633)