『イタリア・ルネサンスの文化1』 ブルクハルト 2/5

ルネサンス期の「個人」

 そのような社会の中で、個人もまた変化していく。ブルクハルトは直接書いてはいないが、当時のようなきつい社会を生き抜くために、社会を観察する眼が養われたこと、そのことが、個人の精神的な自立を促したことが語られている。

 中世においては、意識の両面――外界に向かう面と人間自身の内部に向かう面――は、一つの共通のヴェールの下で夢みているか、なかば目ざめている状態であった。そのヴェールは、信仰と小児の偏執と妄想から織りなされていた。それをとおして見ると、世界と歴史はふしぎに色どられて見えた。しかし人間は自己を、種族、国民、党派、団体、家族として、あるいはそのほか何らかの一般的なものの形でだけ、認識していた。
 (当時のイタリアの共和国や専制国家の性質のなかで)はじめて、このヴェールが風の中に吹き払われる。国家および一般にこの世のあらゆる事物の客観的な考察と処理が目ざめる。さらにそれとならんで主観的なものも力いっぱいに立ちあがる。人間が精神的な個人となり、自己を個人として認識する。(220)

 その中で、「近代的名声」という概念も出てくる。しかし、次のエピソードは、名声宵うより、名声欲や恥辱の除去というべきものであり、それが激しい形で現れるところに、当時の時代性を感じることもできるだろう。

 思慮のある歴史家が、耳目を聳動する企てにおいて、その動機として何か大きなこと、記憶すべきことをしたいという燃えるような欲求をあげたことは、一度や二度のことではない。ここに現われるのは、たんなる卑しい虚栄心の変質したものではなくて、真に魔神的なもの、すなわち決断の非自由が、極端な手段の行使や、結果そのものへの無関心と結びついたものである。……
 (ロレンツィーノによるスフォルツァの殺害の原因が、恥辱を忘れさせるような「新奇さ」であった説にふれ)そこには、ひどくいらだった、しかしすでに自暴自棄になっている力や情熱の、この時代のまぎれもない特徴が見られる。(248)