『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』 河合隼雄 村上春樹 2/2

物語に対する認識のズレ

 一方で、二十年も前の対談のせいか、多少古さを感じる個所もある。たとえば、当時から「本離れ」はあったが、「物語」はまだ影響力があった。今の時代は、その「物語」の影響自体が低下している。
 村上氏は、物語について次のように言う。

 『ねじまき鳥クロニクル』という小説が本当に理解されるのには、まだ少し時間がかかるのではないかという気がするのです。……というのは、ぼく自身、小説が自分自身より先に行っている感じがするからなんですよね。いまぼく自身がそのイメージを追いかけている、という感じがある。
(河合)それをこれから現実化しなければいけませんね。(91-92)

 この後、村上氏は冷戦後の新しい種類の暴力性を物語の中に取り込む必要性をかたる。しかし、その表現に成功した物語が、何らかの社会的なリアクション=河合氏の言う「現実化」を引きおこすと考えるのは、二〇一八年現在、難しいと言わざるをえないだろう。

私にとっての「コミットメント」

 コミットメントというのはなにかというと、人と人との関わり合いだと思うのがけれど、これまでにあるような、「あなたのいっていることはわからわかる、じゃ、手をつなごう」というのではなくて「井戸」を掘って掘って掘っていくと、そこまでまったくつながるはずなのない壁を越えてつながる、というコミットメントのありように、ぼくは非常に惹かれたのだと思うのです。(84)

 「井戸掘り」については、インターネットの予言という解釈もある。確かにこの解釈は分かりやすいが、個人的には、それはもっとポジティブで、強いものだと思う。
 私は今年五月、三〇年以上前に読んだある本をたよりに、短い旅行に出かけた。その本の著者について調べる中である書店を知り、旅行中そこを訪ねた。そして、書店主のはからいにより、その本の著者と電話を通じて話をすることができた。それは、少し感動的な旅の記憶となった。
 引用した個所を読み、私はこの旅の印象を思い出した。この文脈に当てはめれば、私にとってコミットメントとは、過去を探っていき、行動することで、人とのつながりが築けたこと。それはめったに訪れるものではない。必ずしも見つかるものではない。しかしそれは、生活に少し活力を与えてくれるような、明るく、ポジティブなものであると思うのだ。