『浄瑠璃を読もう』橋本治 3/3

『菅原伝授手習鑑』と躍動する現実

 「安井の浜」は、「今まで」と「これから」をつなぐ程度の短い場面で、たいして重要なものではない。観客は、「なるほどね、そうなんだ」とか、「ああ、可哀想に」と言っていればいい程度のものだが、それはあくまでも、当時の社会の論理を理解して生きている「当時の観客にとって」で、今の我々にとっては、そう簡単に「なるほどね」とは行きにくい。「なんかよくは分からんが、そういうもんなのか……」と、舞台上では簡単に片づけられる「回りくどい論理」を呑み込むしかない。呑み込もうとして、そう簡単に呑み込めないのが「当時の当たり前の考え方」で、重要なのは、「恋愛の衝動は誰にでも訪れるが、それが現実社会で幸福に結実するわけでもない」である。
……「野放しにされてもいい」とされた(苅屋姫の)恋の衝動は、それほどの重さを持つはずのもので、であればこそ「土師の里の物語」は、妙に血腥くて、「闇の度合」が深いのである。その理由を、当時の観客たちは体の奥で理解していたはずである。(180-181)
 本来なら「松がつれないはずはない」であるものを≪松はつれない≫と囃し立てる≪世上の口≫とは、何者達なのか?それは、梅王丸と争う佐多村の松王丸を否定的に見る、観客である――その観客を味方につけた「欲求不満の正義」である梅王丸である。……「“全体主義に加担するものは、全体主義に加担していることを自覚していない”ということを、やんわりとあぶり出す」。松王丸は「正義に過剰になったものから放逐される個」なのである。(201)
 (江戸時代の町人達の歴史理解に関連し)菅原道真は延喜元年の正月に失脚し、二年後の死んだ――その歴史的事実の中に「河内の農民と三人の息子」を投げ込んだ時、一つの矛盾が見えた。それが、「二年間あなたはどうしてなにもしなかったの?」という、菅原道真への批判である。……「今更なにを?」という気のつき方をするのは、「天下の大事を理解しない無学な老人」ではあるのだけれど、白大夫という「知性」を創出してしまう知性は、かなりすごい。(217)