『ピアノを弾く哲学者 サルトル、ニーチェ、バルト』 フランソワ・ヌーデルマン 3/3

バルト―演奏のエロティックな現象学

 ロラン・バルトもピアノについて様々に著述した哲学者であったが、その白眉は「演奏の現象学」ともいえるような、演奏そのものについての記録である。
 バルトが、演奏する=”打つこと”によって追求したのは悦楽だった。ピアニストがそっと鍵盤を愛撫する場合でさえ、「身体は突かなければならない」とバルトはいう。突く、突かれる、ぴんと張る。力を抜く……。演奏する身体は、具体的な対象を必要とせず、ただ欲動を感じ、悦楽する。

 普通のピアノの練習はいわば身体の調教だが、バルトは「打つ音の悦楽的な反復」を望んだ。「必要なのは、身体の内部で打つことである。こめかみを、性器を、腹を、内側の皮膚を打つこと」。このエロティックなとらえ方は、喜びや悲しみといった精神状態を表現しようとするロマン派のアプローチとは明らかに異なる。(195)

 例えばバルトにとって、アクセントは次のようなものになる。

 そもそもアクセントは表現しない。アクセントを音楽における真実だとするとき、それはいかなる情動も意味せず、表しもしないとバルトはわざわざ断っている。アクセントとは、たたくことによって演奏者の身体の有機的な生を明示する一撃のことである。(195)

 聴くことの趣味の趣味に関していえば、バルトは「アマチュア的あいまいさ」を好み、演奏スタイルが「申し分なくアマチュア的」であるクララ・ハスキルやディヌ・リパッティをお気に入りのピアニストとしている。この「あいまいさ」とは、音楽を愛するが故の”浮遊”を意味し、アマチュアとは、エートスあるいは生活態度としての音楽の実践のことである。

 バルトはこの語(イディオリトミー〔固有のリズムに則った生活〕)を使って、各人固有の時間の使い方も、集団としての時間の使い方も可能であるような理想社会を定義した。……バルトにとって、ピアノの演奏はまず間違いなく一つのイディオリトミーだった。アマチュア主義の擁護もこれと矛盾しない。すなわち、バルトの演奏は強制されたリズムを追うのでも、メトロノームに合わせるのでもなく、身体の欲動を曲の動きとつなぐのである。シューマンの曲を弾くことは、バルトにとっては現代の喧騒から一歩離れた場所に身を置くことにほかならなかった。バルトは現代性のすべてについて、同時代の前衛のすべてについて常に通じていることができたが、同時にそこからある程度距離を置き、逸脱する能力を維持していたのであり、盲目的に時流を追うことはなかった。音楽はそんなバルトの”脇への一歩”を意味していた。(204-205)

ピアノを弾く哲学者 サルトル、ニーチェ、バルト (atプラス叢書)

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