星三百六十五夜/野尻抱影 1/2

「星の翁」とも呼ばれる野尻抱影氏。その名の通り、星をテーマにした様々なエッセーを残している。この本ではその名の通り、1年365日を通し、1日1作ずつ文章が著されている。私も氏にならい、昨年の夏から1年かけて、ゆったりとこの本を楽しんできた。
 星を見れば、氏の思いは、古今の詩文に、あるいは過去の記憶に自由に飛翔する。

 ルナールは、自分の知らない国に対して感じるノスタルジヤは、前世の旅行でめぐり歩いた地方の思い出かも知れぬと書いている。私がひとり木橋に立って見上げる織女も、また三つ星も、あるいは今の世で見たものではなかったのかも知れない。こんなことを時には空想する。 ―『青い星』8月12日―

 中国の昔には、月に月宮殿があり、桂の木が茂り、天女が住んでいるとも考えていた。それで日本にも『竹取物語』のような美しい文学が生まれた。さもなくとも、つい百年前ぐらいまでは天文学者でさえ、月に月人というような生物のいることを否定してはいなかった。
 いまでは、こんな想像は愚かなことだが、こうして明月に対していると、月人の存在を信じられた時代の心境がうらやましくもなってくる。地球に「隣りあり」との感じは、明るくのんびりしていたに違いない。特に今の荒れた世情と比べるとである。 ―『中秋名月』9月30日―

 こんな天の川は一と秋の間にそう度々は見られない。思い出すのは戦争の間の天の川である。警戒管制のまったくの暗闇で、江戸時代の夜でもこうは暗くなかったろうと思われた。そして死の街のような寂寞の中に立ち、敵機の爆音を捉えようと息を詰めている頭の上で、天の川が銀いろの煙幕を引いたように輝いて、仲間の鉄かぶとにもその光が映っていた。あまりに明るくて、全市がそれに曝されていると思うと、不気味なくらいだった。
 また思い出すのは、戦死したS君が、黄浦口のクリーク戦の間に、兵たちが塹壕から天の川を見上げて、「あんなものが空にあったっけ」とか、「国でもこんな天の川は見たことはない」とか、口々に言いあったと話していたことで、大陸の秋の夜に誘われた郷愁がしみじみと思いやられた。 ―『露』10月11日―

 星をあたかも生き物であるかのように描いている次の作品も、印象的である。「星を愛でる」とは、このような見方のこと。

 土星がこの純白な一等星と並んで、同時に眼にはいると、驚くほど生き生きと、華やいでも見えるのはなぜだろう。いや、スピーカにしても、一等星としては二十の末位に近く、あまり見栄えのする星ではない。それが今土星と並ぶと、その色もきらめきも際立って美しい。これは、惑星が瞬きをしないことが引き立たせるためらしいが、それでも顔を見合って何か話し合っているように見える。 ―『星の戯れ』6月15日―

星三百六十五夜 秋 (中公文庫BIBLIO)

星三百六十五夜 秋 (中公文庫BIBLIO)