『恋愛のディスクール・断章』はどう読むべきか? −『ロラン・バルト (シリーズ 現代思想ガイドブック)』1/2

 昨年から、ことある度に読んでいる、ロラン・バルトの『恋愛のディスクール・断章』。文体もきれいだし、内容も恋愛にまつわる様々がちりばめられていて、自分にも思いあたることも多く面白いのだが、なかなかバルトの考え方がつかめない。
 そのために、副読本としてこの本を読んでみたが、バルトの思想が時代を追って簡潔に説明されており、かなり分かりやすい。
 とりあえず、『恋愛のディスクール』が著された時代、およびその思想について、まとめておきたい。

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 この時代のバルトが課題としたのは、思想、とくに政治的な考えを語るときの言葉の問題である。保守にしろ左翼にしろ、その言葉が硬直することに彼は危惧を感じていた。
 言葉の硬直は、主義主張のステレオタイプ化を生じさせ、それは異質な分子の排除につながるだろう。その意味で、同じ主張を繰り返す政治家の態度は、バルトのとれば保守も左翼も変わらないものなのだ。
 そして、言葉の硬直化を逃れるためにバルトが利用した手法が、「快楽主義」であるといえるだろう。

 バルトの願望とは、ドクサへのなかでの凝固、複数性や差異というものを抑圧し覆いつくしてしまう「名前」のなかでの凝固からエクリチュールを守ることなのである。バルト後期の仕事では、こうした願望がより完全に、作家としては一見時代遅れの立場、とりわけ私的で、個別化された快楽-探求の主体という立場をとることに結びついている。バルトはこうした(中性の)エクリチュールを、頻繁に身体からやって来るエクリチュールに関連させている。書く主体の「身体」とは、バルトによれば、ブルジョワプチブルの文化(その逸脱と倒錯の観念ゆえに)とマルクス主義-着想の左翼的ディスクール(快楽に通ずる個人的、感傷的なものの禁止ゆえに)の双方にとって、最もスキャンダラスなものであるように思われる。保守的なディスクールと左翼的なディスクールは共に、書く主体に対して身体の快楽や倒錯に耽ることの禁止で共謀しているように見える。……政治的スペクトルの右と左のこうした正統性に抗って、バルトは挑発的にポスト構造主義の立場をとり、それを自分自身の進退と自分自身の快楽へと向ける。