『ピアノを弾く哲学者 サルトル、ニーチェ、バルト』 フランソワ・ヌーデルマン 2/3

ニーチェ―転向させるものとしての音楽

 ニーチェといえば、ヴァーグナーを称賛した哲学者として知られている。しかし、後にその音楽を否定したことは、少なくとも哲学の門外漢からは、あまり知られていないのではないだろうか。
 抑鬱的、病的な傾向があるドイツのロマンティシズム、その極限にあるヴァーグナー抑鬱に苦しんだニーチェは、ヴァーグナーを否定することで、自らのもつその性格を捨て去ろうとした。

ニーチェヴァーグナーの場合をめぐって巧みな冒涜を準備し、そこで冷徹な洞察力を発揮し、近代性の主要な言説の中に――たとえそれがどれほど冒涜的に見えようとも――神聖性とその原理体系が復活していることを暴いてみせたのである。聖なるものの文法の主な特徴としては、象徴の導入、過度の誇張、虚飾が挙げられる。これらに加えてさらにニーチェが告発したのは、高みへ登ろうとする意志(ヴァーグナー的理想主義に典型的にみられる特徴)と、その付随物である無限への思考、純粋の追求、死後の世界の幻想だった。(109)

 ヴァーグナーを捨て去ったニーチェが愛したのは、ビゼーのオペラ(なんと通俗的な!)。その明解さの中に、ニーチェは理想とする「地中海的性格」を見いだす。

 地中海の光のなかで耳にする音楽は、人と世界のあいだに「大げさな儀式という虚言」や難解な言説とはまったく異なるかかわり方を育む。それは快楽、気軽さ、空気の透明さ、空気の乾燥といったものだ。ニーチェはドイツ的なものと縁を切り、フランス、イタリア、スペインの「より褐色の、より日焼けした感受性」を称賛し、さらには北アフリカの晴れやかさまでたたえた。……これを悪趣味だ、偏見だ、復讐だと非難することに何か意味があるのだろうか。……ニーチェにとっては、音楽の生理学的問題はいかなる厳密な美学的考察よりも重みをもっていた。いい換えれば、聴くと同時に思考する身体が論じる美学は、あらゆる形式を超えるのである。(119-120)
 ヴァーグナーは、地中海化したニーチェの身体のなかで死を迎えたのであり、その死亡日がドイツを離れてからのニーチェの変化を裏書きし、これを決定的なものとした。『ツァラトゥストラ』が交響詩に例えられるのは、単にこの哲学詩が音楽に似ているからではなく、ニーチェの変貌を生理学的に説明しているからでもある。ニーチェビゼーの『カルメン』が彼をいっそう優れた聴衆にし、いっそう優れた哲学者にしたと書いていた。だとすれば、『ツァラトゥストラ』はまた一つの新しい聴き方を理論化したのであり、それによって世界の言語がいっそうよく聞こえるようになったということである。(125-126)