『ピアノを弾く哲学者 サルトル、ニーチェ、バルト』 フランソワ・ヌーデルマン 1/3

 サルトルニーチェ、バルトという、生涯ピアノを愛好した三人の哲学者。著者は、ピアノは単なる趣味にとどまるものではなく、三人の哲学にも重要な役割を果していると考え、彼らとピアノのかかわりを綴っていく。
 楽器演奏が思想に影響を及ぼすなんて、何と大げさな、と思うかもしれない。しかし、趣味で聴いている、あるいはたまたま耳に入った音楽が私たちの考え方や、生き方に少なからず影響を与えることは、誰でもあることだ。
 そして、その音楽は、私たちの仕事や人間関係とは全く関係のないものであることが多い。にもかかわらず、私たちの生活にとっては、ときに音楽のほうが重要性を持つのだ。
 この三人が好んで演奏した音楽も、ショパンシューマンなどのロマン派である。それらは、彼らの思想から考えれば、少し意外なものかもしれない。しかし、その音楽を聴いたり、演奏することで、彼らの思想や人生の方向性が変化しただろうことは、十分に考えられることだ。

サルトル―日常の側にあるピアノ

 例えば、サルトルショパンに親近感を抱いていたが、それはサルトルの思想やブルジョワ批判とは、相容れないものに映る。
 しかし、サルトルといえども、つねにパブリックイメージで語られるような「サルトル」というわけではない。

 伝記作家や研究者はだいたい「連続性の切断」をつないだり均したりしてしまう。何らかの線を引いて、その上に描く時期の際立った特徴を書き留め、「世紀の人間」を作り上げるためにすべてを整理してしまう。しかし、作家とその世紀の共示的関係が異論の余地のないものに見えたとしても、その裏にはたくさんの固有のリズムが隠れている。時代錯誤、イディオリトミー、非現代性、流れる時間、回折した時間、内密な時間など。そして、ピアノの演奏はこうした隠れた時間性に属している。つまり自己制御の言説の枠外にあるため、あえて受動的な、不連続なものにならざるをえない.(56)

 サルトルは、確かに革命的な思想家であったかもしれない。しかし、革命的な生が四六時中可能なわけではない。そもそも、それでは身が持たないだろう。
 革命を起こすにも、やはり日常的な生活は必要であり、サルトルにとってピアノとは、その日常に在る、心地よい存在だった。そして、生活のなかのひとつひとつは、やがて世界を変えることにもつながる。サルトルの演奏に、著者はその可能性を見ているようだ。

 音楽は感情と時間を内包し、言葉を経由しない。演奏が強要するリズムと持続は、現実の直接性から、さらには現実の必要性との関係からも演奏者を解放する。『嘔吐』に出てくるあの回転するレコードは、不快な世界に硬い針を当てて切残していく刃としての音楽を表わしていた。しかし、アマチュア演奏家サルトル自身はそのように音楽を生きたのではない。その演奏はもっと時間性の浮遊や切り替えを楽しむものだった。……世界を覆すためには再評価や革命だけではなく、休止が、リズムの乱れが、固有のテンポが必要であり、サルトルにとってはそれがピアノの演奏だったのである。(64,67)