『恋愛のディスクール・断章』 ロラン・バルト 1/2

 「嫉妬」「憔悴」あるいは「追憶」。このような、男女間の恋愛について回る感情を、「ウェルテル」はじめ、 古今の文学作品を渉猟しながら分析したこの本。 一見、作者ロラン・バルトの体験が色濃く反映されているように思えるし、出版された当時は、そのように受け入れられたかもしれない。
 しかしその予想は、死後に明らかになった、作者が同性愛者であったという事実により、覆されることになる。
 当事者になりえないバルトは、それでは恋愛のディスクールをどのように綴ったのか。いくつか引用してみよう。

「不在」
 このようにして耐え忍ばれる不在とは、忘却以外の何物でもない。つまり、わたしは間歇的に不実となるのである。それが生き残るための条件なのだ。忘れることがなければ、わたしは死ぬだろう。恋する者は、ときどきは忘れることがないと、記憶の過剰と、疲労と、緊張とで死ぬのである。
「待機」
 恋愛関係が鎮静してからも、わたしは、愛した人のことを幻覚に捉えるかつての習慣を保ちつづける。なかなか電話がかかってこないといって、あいかわらず苦しんでみたりする。よけいな電話をかけてくる邪魔者の声に、かつて愛した人の声を認めたように思う。そのときわたしは、切り落としたはずの脚になおも痛みを感じつづける者である。
「所を得る」
 恋愛主体には、自分のまわりの人がすべて「所を得ている」と見える。誰もがみな、さまざまな契約関係からなる実用的で情動的な小体系をそなえていて、自分だけがそこからしめ出されていると感じるのだ。そのことで彼は、羨望とあざけりのないまぜになった感情を抱く。……あの人にはあの人なりの生の構造があって、わたしはそれに属していない……構造としての力、おそらくはそれが、彼女たちの中に欲望されるものなのであろう。

 微妙な恋愛感情を、これだけ正確に著述できるのは、バルトがあくまで第三者的な視点に立っており、感情に流されることが無いからかもしれない。もちろん彼がたぐいまれな文筆家だからということもあるだろう。
 しかし、文学作品の引用だけで、感情の的確な著述ができるということは、恋愛がそもそも間テクスト的なものであるからであり、その意味で、この本はバルトが彼の間テクスト理論を実証するために著されたものと邪推することすらできる。