マーラー 交響曲第六番(バーンスタイン)

 今年の春から、マーラー交響曲を全作品聴く計画を立て、先週第十番まで聞き終わりました。今週からは、過去の作品の聞き直しを始めています。
 今回は第六番を聞き直しました。
 印象的なのは後半の二つの楽章。第三楽章では、木管楽器を使った五音音階的で素朴な響きがある一方で、壮大で豪華な曲想が交錯するように奏でられます。全曲中何度も見られる短二度の下降=悲劇のモットーは、この楽章では甘美な・ロマンティックなものとして響きます。
 第四楽章では、それまでの楽章のモチーフが何度も反復され、その中から英雄的な旋律が現れます。それは、「こうであり得たかもしれない人生」を表しているかのようです。
 第九番や第十番が新しい世紀のほうを向いているのに対し、第六番は過去を向いていると言えるでしょう。マーラーは後期ロマン派に位置づけられますが、この作品の構成や旋律には、二〇世紀の音楽よりは、十九世紀のロマン派の音楽との親近性を感じます。そして、ロマン派を乗り越えるのではなく、その一つの完成型を提示することで、一つの時代にピリオドを打とうとした、そのような迫力を第六番には感じます。

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 吉田秀和氏が1970年代に『ステレオ芸術』誌で連載していたマーラー論では、第六番が大きく取り上げられています。
・単純だが、これは素朴ではないのである。いわば「民芸品」のような手ざわりと匂いが、そこにはある。というのは、マーラーの罪でも何でもない。シューベルトのあの真正にロマンティックな時代は、もう二度ととりかえしがつかなく失われてしまっていたのだ。マーラーのは、それに対する一〇〇パーセント懐古の産物として生まれた。そこから、シューベルトのとはまったく別の「甘美さ」がこの旋律に生まれる。これが、とっくになくなったものへの憧れの歌だということは、逆に言えば、ここでは、ロマン主義者の夢見た自然と素朴の「喪失、解体」という明解な意識が、現実の正しい認識として、存在している事実を示しているにほかならない。(『吉田秀和作曲家論集1』P135)
シェーンベルクの言っていることは、マーラーの音楽の核心をついている。マーラーの音楽は、一面でいうと旋律の音楽なのだが、その旋律が、音楽の進むにつれて、精力を消費し、疲労し、単調になってくるのとは逆に、じりじりと力を増し、しだいに活気づけられてゆくのである。しかも、それはベートーヴェンたち、古典の人びとのやったのとは違ったやり方(形の全体から旋律上の着想へ)によってである。(同上P139)
マーラーの複雑にして膨大な交響曲をつかむ鍵は、シェーンベルクの称賛してやまない旋律形成の天才的着想の豊かさとならんで、この旋律が、それ自体で表現的であるのと同じくらい、全曲の構造に対して核心的役割を果たしているという事実を、聴きわけてくる中にあるといってもよいのではなかろうか?(同上P148)
 第六番においては、第三楽章の旋律が構成の要となる。各楽章の旋律・リズムはこのアンダンテから発展したことが指摘されています。