『現代思想の冒険者たち バルト』 鈴木和成 1/2

 著者の主張したい内容が、初読時に明確に分かるわけではなかったが、何度か読み返すうちに少しずつ理解できたような気分になる不思議な本だった。バルトの思想を紋切型に説明するのではなく、その魅力を複雑なまま伝えるには、この本のような書き方は誠実な態度と言えるかもしれない。
 印象に残ったのは以下に引用する部分だが、基本的には構造主義の考え方(アイデンティティの欺瞞)がベースになっている。それを利用し、器用に自分の言説を作っていくことに、バルトの直観の鋭さがあるのだと思う。

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ロラン・バルトの身元証明(アイデンティティ)は、螺旋状のねじれた構造になっていて、そこにはどこまでも続く「歯形の段階目盛り」、換言すれば、先にのべた非連続なものが刻まれている。この目盛りを鏡像段階といってもよい。重要なことは、この鏡像段階が一回限りの決定的な段階ではなく、くりかえし彼の生涯に回帰する「忘我の境界」である点だ。(42)
・(いわゆる「ロマネスク三部作」について)オイディプス神話とは「掟」の侵犯の物語だが、オイディプスの不在、すなわち「掟」の不在が、バルトにおいて物語に対する禁止として働いたとは、大いなる逆説と言わなくてはなるまい。そして、バルトその人は、この逆説をみずから語りつつ、それを舞台で上演している節があるのである。(50)
・主として十八世紀の啓蒙の時代とともにはじまった自由主義精神は、バルトの言によれば「おろかにも」、唯一絶対の意味を保持する「正典」としての文字を敵視するあまり、その外観、すなわち書き言葉の持つ「そこに−あること」の豊かな衣装をはぎとり、ひたすら深くうがつことになったのである。(114)
・なしうることは、そのような「私」がどこまで神話的存在であるか、どこまで想像界の住人であるかを物語ること。――ちょうど『恋愛のディスクール・断章』の語り手が、その恋の病を語ったように――一つの神話から他の神話へ、一つの想像界から他の想像界へ、複数性、多様性の原則を用いて移行しつつ、その転移のただなかにかろうじて神話の汚染をまぬがれる方途を探ることである。できるならば、そのつど別のことを言い、前言を取り消し、信条告白を裏切り、そのようにしてみずからの言論に隙間を作り、余白を設けて、――バルトの断章形式とはそうした要請から生まれたものだ。連続して一つのことを語りつづけるかぎり、人は「自然らしさ」や「もっともらしさ」の鳥黐に捕らえられる。ようするに、首尾一貫したことを展開しなければならなくなる。そのようにして自分をいつわることになる――そういう段階の切れめ、言葉が「固まる」前の段階にとどまるのである。(161-162)