『悲しき熱帯2』 レヴィ=ストロース

昨年の春に読んだ1巻に続き、2巻も10年ぶりの読書となりました。1巻に比べ、個々の調査時の内容が多いため、エピソードはその都度本を読んで記憶を新たにするしかありません。
ここでは、『悲しい熱帯』全体の印象と共通する、二つのエピソードを書きとめておきたいと思います。

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ひとつは、セリンガ地帯で日曜日に開かれていたという、おぞましい舞踏会の描写。

私は、ヴァティカンという、過ぎ去った栄光を思い起こさせる名でまだ客を集めていた、こうした廃屋の一つを知っている。日曜日になると、人は絹パジャマを着、中折れ帽を被り、磨き立てた靴を履いて、名人芸の域に達した独奏者たちが、口径の異なる連発拳銃の銃声で様々な旋律を奏するのを聴きにやって来るセリンガ林では、もう誰も豪奢な絹のパジャマを買うことができない。しかし或る種のいかがわしい魅力が、セリンゲイロとの同棲でかりそめの生活を送る若い女たちによって、まだあたりに振り撒かれていた。……

ホラーのような、悲しみに打ちひしがれた世界。文字通り「悲しい熱帯」の様子を特徴づける描写には、当時のレヴィ=ストロースが見た南米の印象が凝縮されているように思えます。

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もうひとつは、マト・グロッソ高原を旅する間、著者の頭に常に浮かんでいた、ショパンの旋律について。

何週間ものあいだ、この西部マト・グロッソ高原で私に付き纏っていたのは、私を取り巻いている、もう二度と見られないかも知れないものではなく、私の記憶に甦るためになおさら陳腐なものになっていたショパンの練習曲第三番作品十の、聞き古された旋律だった。その旋律は、私が心に抱いていた苦渋を嘲弄しつつ、私が背後に残して来たすべてを要約してみせているように思われたのである。
……
一体、これが旅というものなのだろうか?私を取り巻いていたものよりも、私の記憶の荒れ野を探るということが?

南米の奥地をめぐるなかで著者が感じていたむなしさ、やりきれなさ。このショパンの音楽をめぐるエピソードは、それを強く感じさせるものでした。

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10年前、東京から名古屋まで3時間かけてゆっくり走る新幹線「こだま」のなかで、この本のハイライトともいうべき37章「神にされたアウグストゥス」、38「一杯のラム」を読みました。
夏の終わりの雨の中で本を読みながら過ごした時間、その中の電車の中の様子などは、今でもよく記憶しています。
この二章を読んだとき、心のなかに悲しみと同時に、やわらかなあたたかさが宿ったような気がしました。それは、今でも人生の中の忘れがたい時間として、私のなかに残りつづけています。
今年この本を再読し、そのとき感じた悲しみやあたたかさは、レヴィ=ストロースが、彼が旅した世界にむけたまなざしとも言えるのではないか、と思えました。まあ、これは考えすぎかもしれませんが。