マーラー 交響曲第七番(バーンスタイン)

 マーラーの七番目の交響曲。この作品の第一印象は「よく分からない」といったものでした。副題に「夜の音楽」とあるとおり、夜の情景を描いていることは分かる。しかし、各楽章のつながりは感じられない。曲のストーリーが見えてこない。そして、あの異様なまでに明るく、あっけらかんとした最終楽章。
 全体の謎めいた構成は、解釈の難しさにもつながり、演奏される機会が少ないのも宜なるかな、という印象を持っていました。
 しかし、この作品を聴きなおすなかで、私の中で一つのアイデアが浮かびました。それは、この音楽を、通時的ではなく共時的なもの、長編小説ではなくオムニバスの短編集として聴いてみる、ということです。この考えに基づいて聴いたとき、音楽は明確な、くっきりしたものとして目の前に現れました。
 作品では、楽章ごとにひとつの土地の、夜の情景が描写されます。そして、描写される風景は、地上のものだけにとどまりません。天上の風景も、地上と同じように描かれるのです。
 例えば第一楽章は、荒々しい山の風景から始まり、次にカメラは夜空の星のきらめきを映し出します。第二楽章は、古城の描写。かすかに灯りのともった廊下を、精霊たちが飛びかいます。第三楽章は、サパトの様子。奇妙な宴が催され、遠くからは獣の鳴きごえが聴こえます。
 ギターを使ったモダンな第四楽章は、セレナーデといわれますが、これは中世の吟遊詩人のそれではないでしょう。むしろ、セレナーデの曲調を援用しながら、二〇世紀初頭の夜の街を描いている。おしゃれで、都会的な音楽でもあると思います。
 そして、最終楽章。私は、この楽章を「天上の夜の宴」と解釈しました。ヴェロネーゼの『レヴィ家の饗宴』のような、にぎやかな宴です。真昼間のような主要主題は、宴会の様子をあらわしたもの、時おり出てくる夜を感じさせる旋律は外の風景、トルコの軍隊の音楽は、異国人の出しものとして聴けるでしょう。
 楽章の最後の部分では、第一楽章の冒頭が奏でられ、やがてそれは長調へと変化します。鐘やカウベルの響きとともに、輝かしい朝が迎えられ、各楽章で描かれた夜の風景は、朝の光のなかでひとつになります。
 この私の解釈が正解である保証はまったくありません。また、マーラーの意図も、おそらくこのようなものではないでしょう。
 しかし、私が以前読んだ本に、次のような記述がありました。

 少々理屈っぽくなるが、例えば右の(ハンスリックの)例でいえば、確かに「スメタナの音楽は(狩人ではなく)猟犬の歓喜を表現している」のではない。むしろ逆に、音楽の中に本来内在している強烈な運動感覚が、「猟犬の喜び」という言葉を与えられることで、まざまざと私たちの身体に喚起されてくるのである。フリッチャイはこの箇所の前後で、四本のホルンがひとかたまりになって溶け合うことなく、それぞれが独立して四方から呼びかわし、こだまするような効果を再三求めている。おそらく「猟犬」という比喩も、こうした声部の独立性を詩的に表現したものだろう。ここでは、音楽が猟犬を表現しているのではなく、「猟犬」という言葉が音楽構造の比喩――それも極めて鮮烈な――として機能しているわけである。(岡田暁生『音楽の聴き方』P63)

 「天上の宴」という発想にたどり着いたことで、この作品は「よく分からない」ものから「親しみやすい」ものに変わりました。音楽を語る言葉をもつこと、聴きかたの引き出しを増やすこと。作品を聴きこむ中で、この二点の効用を身を持って経験できたことは、大きな収穫だったと思います。