『悲しき熱帯Ⅰ』 レヴィ=ストロース 1/2

10年ぶりのレヴィ=ストロース

『悲しき熱帯』をはじめに読んだのは2003年、まだこの本の著者が存命であった時でした。以前より機会があれば読みかえしたいと考えており、5月連休の旅行の友として、実に10年ぶりに読むはこびとなりました。
読みかえすと、ところどころに初読時にしるしをつけた個所が見つかります。おそらくその当時、感心した箇所かと思いますが、たとえば次のようなところにしるしがつけてあり、昔はまじめでアカデミックなものが好きだったんだなあと、少し気恥ずかしく感じてしまいます。

(聖物を無造作に子供たちに与えることについて)変化することなく五十年保たれた一つの状態は、或る意味では正常と言ってよいであろう。この状態の解釈は宗教的な価値の崩壊のうちに求めるよりは、むしろ聖と俗との関係の考え方の中に……求めなければならないだろう。聖と俗の二者を対置させることは、人が好んでそう看做したがるほどには、絶対的なものでも、持続的なものでもないのである。

随所にちりばめられた構造主義的な直観

今回の再読では、著者の構造主義的な直観、あるいはその理論の実践ともとれるような考えを、随所から読み取ることができました。正直、なぜ10年前はこの箇所を読み飛ばしていたのか、不思議なくらいなのですが、気になった箇所が、「精神分析的」「ラカン的」とも形容できるような性格があったため、精神分析学の知識が読書を助けてくれたのかもしれません。
たとえば、インディアンの若者と現代フランスの若者の「力への探求」の類似性。ある一定の年齢に達したインディアンが無謀な旅に出たり、体を傷つける苦行をおこなうようにフランスの思春期の若者は、山登りをしたり、遠く離れた異国の奥地に行ったりする。
また、サン・パウロの存在した「社交界」の様相。その世界を構成する旧教徒、自由思想の持ち主、正当王朝主義者、共産主義者、大食漢、愛書家、純血種の犬の愛好家、現代絵画の愛好家、物知り、シュールレアリスト…。

この愛すべき人たちは、人格を具えた人間ではなく、むしろ役割そのものなのだった。しかもそれらの役割は、そういう人が居合わせたからというより、役割の持つ重要性によって選ばれていた。……全員の一人一人が、自分の役目を守るという利害からだけでなく、この社会学メヌエット――それを踊ることに、サン・パウロ社交界は尽きぬ楽しみを見いだしているらしかった――に磨きをかけるのに熱心だった。