『ヘーゲル・大人のなりかた』 西研

6年前に読んだ本の再読。
再び読もうと思ったきっかけは、今年の4月、NHKの番組での氏の発言からだった。
番組はニーチェの『ツァラトゥストラ』を紹介する内容であったが、その中の「超人」という概念について、氏は「超ポジティブ人間」、同じく出演していた斎藤環氏は「究極の引きこもり」と意見していた。
どちらの意見にも説得力があったが、大きな違いは「人との積極的なつながりを求めるか」であったと思う。そして、それを求める西氏の意見により共感を持ったのだ。
この『ヘーゲル・大人のなりかた』でも、「関係性の哲学」とでもいえる内容で、それを理想的なものに近付ける、氏の考え方が述べられている。

<事そのもの>が単なる方面的なタテマエで、エゴがホンネなのだ、と考えるべきではないのだ。いわばどちらもホンネなのである。「自分が認められたい」と「客観的・公共的に意味あることをなしとげたい」とは深く結びついていて、どちらかを切り離すことなど、できはしない。
このことに意識が気づくとき、彼は「だましあいのゲーム」を積極的に受け入れることができるようになる。……そのことを通じて<事そのもの>がめざされ実現されていくのだ。(139)

また、関係性を重視する一方で、それは「内輪の集まり」に求めるものではない。むしろ、自分の求めるものをよく考え、柔軟に行動していく「態度」に重きをおいている。
つまり、関係性はサステナブルなものではなく、時には組み換え、場合によっては距離をとるべきものでもあるのだ。

関係の悦びを求めるからこそ、言葉を鍛える意味がある。――自分に不満があるならそれは何かよく考えてみること、相手の事情を考え合せてみること。そのうえで、最終的に相手に通じるような言葉をつくろうとすること。……それは、関係の悦びを深くしていくための「技術」なのだ。
……
ではどこまでがんばるか。これはまったく、その人次第なのだと思う。動かせないならあきらめて別の場所を探してもいいし、この場所は大切だと思ってがんばってもいい。「どうすることが自分にとっていちばんよいのか」ということだけが、問題だからだ。(234-235)

氏はこの考え方を、芸術作品のとらえ方にも拡げる。ひとりで文学や音楽や絵画に向きあい続けていると、時には寂しさを感じることがある。そのような時でも、人とのつながりは決して途切れているわけではないのだ。

文学や音楽は、ときに、「ああ、ここにも人が生きている」という感覚を与えてくれることがある。生き方が大きくちがっていても、深い共感が生まれることがある。思想の営みも、そういう働きをすることができるかもしれない。(239)

ヘーゲル・大人のなりかた (NHKブックス)

ヘーゲル・大人のなりかた (NHKブックス)