『ユング心理学入門』 河合隼雄 1/2

 2007年の春に読んだ本の再読。以前読んだときに比べ、理解が胸に落ちる部分が大きいな、と感じる。著者の人間に対する洞察、完成のみずみずしさが、頭ではなく感覚的に味わえるようになってきている。自分の中で力んでいた部分が少しずつ抜けていき、柔らかくいろいろなものをとらえる力がついたのだろうか。
 再読する中で、そのようなことを考えてみた。
 ユング心理学という著書名はついているが、その体系を紹介するというより、ユングの枠組みを通した、河合氏の心理学に対する考え方が述べられている。とくに、人間の成長や成熟をテーマにした話題が多く、個々のエピソードには感動的なものも多い。
 ただし、備忘録という日記の特性から、ここでは主にユング心理学のキーワードを、本の記述と合わせて書きとめておく。

コンプレックス

 河合氏は村上春樹氏と対談本を出しているが、コンプレックスが話題のひとつになっていたような気がする。村上春樹は別の文章で、このコンプレックスを乗り越えた人間の強さについて、指摘していた。
・連想実験のさいに、障害を起こす言葉がひとつのまとまりをもっていることを見せる場合がある。たとえば「別れる」に対して反応がおくれ、「死」と答えたり、「悲しい」にたいして「別離」と答え、再検査のときに、それを忘れて「死」と答えたりする。このようにして、多くの心的内容が同一の感情によって一つのまとまりをかたちづくり、これに関係する外的な刺激が与えられると、その心的内容の一群が意識の制御をこえて活動する現象を認め、無意識内に存在して、何らかの感情によって結ばれている心的内容の集まりを、ユングはコンプレックスと名づけた。(68)
・コンプレックスの否定的な面のみならず、そのなかに肯定的な面を認めようとし、また、外的には症状としてみられるもののなかに、建設的な自我の再統合の努力の現われを読みとろうとするような態度は、ユングの考え方の特徴を示しているものといえる。われわれは無数にもっているコンプレックスを数えたて、欠点の多い自分を不必要に反省したりするよりは、その時に布置されてきたコンプレックスの現象をさけることなく生き、最初はネガティブにみえたもののなかに光を見出してゆく実際的な努力を積み重ねてゆくべきである。(86)

心像と象徴

・われわれが、明確な概念のみを取り扱い、その背後にある心像との連関性を忘れ、概念だけの世界に住み始めると、その概念は水を絶たれた植物のようになり、枯れ果てた、味のないものになり下がってしまう。しかし、この逆に、心像のもつ強力な直接性に打たれ、それを概念として洗練する努力も払わず、ただ心像のとりことなって行動するときは、これは生木で家を構築したように、だんだんとひずみが生じてくるのをさけることができない。この両者の関係について、ユングが「理念の特徴が、その明確さ(clarity)にあるとすれば、原始心像の特徴はその生命力(vitality)にある」と述べているのは、真に名言というべきであろう。(119-120)
・ある芸術作品がある人にとっては大きい意味を持つが、他のひとにとっては何の意味も持たない。同じように、象徴が受け取る側の態度に関係することは大切であり、象徴の意味をくみ取ろうとするものは、つねに、あるものの背後に内在する未知の可能性に向かって開かれた態度を持つことが必要である。(123)
フロイトは無意識の内容を自我によって抑圧され、排斥されたものの集まりのように考え、退行をつねに病的な現象として考えていた。それに対し、ユングは退行の現象を病的なものと正常なものとに分けて考え、そして、創造的に生きるためには、むしろ、正常な範囲での退行が必要であると考えていたのである。もちろん、無意識に対しても、その破壊的な面や醜悪な面の存在を認め、その上で、そのなかに建設的な源泉となるものの存在を認めていこうとしたのである。(131)