チェーホフ、その人間観 −『チェーホフを楽しむために』 阿刀田高 1/3

 過去のブログを読み直すと、思ってもみなかったことが書いてあったり、時には読んだことさえ忘れていた本の内容が載っていたりする。阿刀田高氏によるこの本は、2007年に一度読んだものだが、そのときブログに引用した二つの文章を読んだだけでも、改めてチェーホフに触れたくなる。それだけ、氏が古典の紹介者として一流であるということなのだが。
 チェーホフは、もちろん優れたストーリーテラーでもあるのだが、私が魅力を覚えるのは、その人間観だ。社会的なメッセージではなく、日常生活のスケッチ。阿刀田氏も、チェーホフの魅力を、そのように伝えている。

 文学について“裁判官ではなく証人なのです”という言葉はチェーホフの記述の中に繁く見えていて、これは、これが正しいとか、こう生きるべきだとか、解決を示すのではなく、ありのままの姿を的確に伝えること、それこそが文学のあらまほしい姿である、とチェーホフは若い頃には漠然と、経験を積んでからは明確に考えていただろう。小説であれ戯曲であれ、まさにそれがチェーホフの文学であった。(31)

 今回改めてチェーホフに接するにあたり、その人間観に注目してみたい。まずは、作品を読む前に、簡単な復習と、読みどころの予習も兼ね、この本を再読してみた。 

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 人間観といっても、もちろんチェーホフは「人間はこういうものだ」と声高に主張しない。むしろ、物語の中に、「あるある」をそれとなく織り込むことで、私たちの共感を誘う。
 例えば、次の引用は、「いっときは文化的で魅力的に見えたものが習慣化の中で色あせていく」ことを例示した場面。

“いまでも彼は彼女が気にいった、とても気にいったが、もう彼女にはどことなく足りないもの、あるいはどことなく余計なものがあって――彼は自分でもそれが何なのかはわからなかったが、その何かが、以前のような気持ちをいだかせる妨げとなるのだった。彼には彼女の青白さ、むかしは見られなかった表情、弱々しい微笑、声などが気にいらず、しばらくすると服装も、腰かけている肱掛椅子までが気にいらなくなって、結婚しようとまで思いつめた昔のことさえなんだか気にいらなかった。彼は、四年まえに胸を焦がしたあの恋、夢や希望を思いだすと――きまりが悪くなった”
 という次第なのである。
 だが娘のほうはモスクワへ行ったせいで自分の才能の限界を知ったのだろう、あらためてイオーヌイチを見直し、彼女のほうから粉をかけてくる。イオーヌイチはもう応ずる気にもなれず、そのあとに訪問を求める手紙が届いてもトゥールキン家の敷居をまたごうとしなかった。(147)