『江戸にフランス革命を』橋本治 1/5

 橋本治的に、江戸文化はどのように見えるか?
 著者の近年の文章に比べれば、あまり明確ではなく、橋本治という人間を知ったうえでなければ、理解しづらい個所も多い。むしろ、その文章から、橋本治の思想を感じるというのが、この本の読み方なのかもしれない。
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 その過去を、過去の持つ呪縛をもう一度改めて解き放つ為にも、人は今改めて、既にして呪縛を纏い終えている自分自身の現在を明確に自覚すべきなのだ。その自分自身を覆う呪縛から自由になる為にも、人は再び、それぞれの呪縛を明確にする意匠を纏うべきなのだ。
"過去"の持つ意味とはそのようなものだ。それを終えて、人は初めて、"過去"という名の"美"を手に入れることが出来る。(18)
 江戸の"現実"とは、江戸幕府を頂点とする武士世界のもので、町人はそれとは関係がない。"理想"と関係のないものは現実的に生きるしかないし、現実から斥けられたものは、平気で"無責任"という特権を行使することが出来る。……そして、江戸の芝居小屋というものは、多分そういうところに存在していたものなんだろうなと、私なんかは思う。江戸の前近代は、"合理主義の近代”なんかと比べてみれば、とんでもなく”幻想的"なものを生み出していた時代ではあるのだろうけれども、その"幻想的"というものの正体は、"平気で現実離れしている"という種類の超現実主義だ。(36-37) 
 そんなシュールなリアリズムが"写実(リアリズム)"であるのだとしたら、それは写される現実が"そういう現実"だからという、前提の相違である。市井の人間は容易に過去の歴史的人物とイコールになり、場所は平気で時間を超える――それが自分たちの生きている現実であると、江戸時代の人間達が了承していたからこそ、そういう"写実"が可能になる。(57)
 "幻想"なる不可思議を求めるのが人間であるというのは、そもそもの話、その不可思議を求める人間自体が不可思議なものであるという、ただそれだけの話だ。
 日本の"幻想(ファンタジー)"とは、そもそもの話、そうした不可思議な肉体を持った人間が纏うべき"衣装"なのである。衣装に論理を求めてもしょうがない。衣装の論理とは、それを着ようとする人間の中にしかないものだからである。「"それ"を着たければ色気を持て」(61)