『錯乱のニューヨーク』レム・コールハース 2/4

摩天楼の想像図

 一九〇九年のこの「(摩天楼の)プロジェクト」は、かつての大衆紙『ライフ』に載ったものであり、しかも描いたのは漫画かだったという事実――方や当時の建築専門雑誌の方はまだまだボザール建築一辺倒だった――は、今世紀初頭に「大衆」がマンハッタンの建築家たちよりも深いところで摩天楼の到来を直感し、プロの建築家などの与り知らない場所で新しいフォルムに関する集団的対話がこっそりと交わされていたことを示唆しているのである。(141)

ロボトミー―自己モニュメント性の徴候

 容れものと内容の間の故意の断絶の中に、ニューヨークの建設者たちは未曽有の自由の領域を見出す。彼らはこれを活用し形態化するにあたって、建築的なロボトミーを実行する――つまり、前頭葉と脳の残りの部分のつながりを外科的に切断し、感情と思考過程の分離によって何らかの精神の混乱を引き起こそうとするのである。
 この建築的ロボトミーは外部と内部の建築を分離する。
 かくして、聳え立つモノリスとしての建物は、外部に対して、常に内部でせわしなく行われている変化の苦しみを覆い隠してしまう。
 つまり日常生活を覆い隠すのである。(168-169)

過密の文化

 これは言うならば詩的建築公式のためのヴォキャブラリーであり、伝統的で客観的な計画法(プランニング)に取って代わるものであり、定量的領域を根源的にはみ出したところに成立するメトロポリス状況を扱う、メタファーとしての計画法という新たな原理を生み出すものなのである。
 過密そのものが、グリッドという現実の中にこうしたそれぞれのメタファーを現実化するために欠かせない条件なのである。過密だけが、スーパー・ハウス、メガ・ヴィレッジ、マウンテン都市、そして現代的な自動推進式ヴェネツィアを生み出すのである。
 こうした複数のメタファーは一堂に会して過密の文化の基礎を作る。そしてこの文化こそはマンハッタンの建築家が真に計画しているものなのである。(207)

ウォルドーフ=アストリア

 旧アスター荘の要素を、――文字通りまたは単に名目上――移植するということは、ウォルドーフ=アストリアが、そのプロモーターたちによって先代の幽霊で満ち満ちたお化け屋敷として構想されたことを暗示している。
 自分の過去と他の多々物の過去とに取りつかれた家を建設すること、これがまがいものの歴史、「古さ」、そして威厳を生みだすマンハッタニズムの戦略なのである。マンハッタンでは、新しく革命的なものは、いつも親しみ深げな偽りの光に照らされて紹介される。(現在その地には、エンパイア・ステートビルが建つ)(227-228)