『イタリア紀行(上)』 ゲーテ

2011/4/29読了

今でさえもう自分で身辺の用を足し、いつも注意をし、いつも気を配っていなければならないということが、この数日来私にまったく別種の精神的弾力を与えてくれる。以前はただ考えたり、望んだり、企てたり、命じたり、口授したりするだけだったのに、自分で為替相場の心配をしたり、両替をしたり、支払をしたり、記入したり、手紙を書いたりしなくてはならないのだ。(49)

ヴェネチアにて)たとい彼らの潟がしだいに埋もれ、邪悪の気がこの沼沢の上にただよい、彼らの商業が萎靡沈滞し、彼らの権勢が地に堕ちることがあったとしても、この共和国のあらゆる基礎と本質とは、瞬時たりとも、これを観る者の畏敬の念を傷つけるものではない。この国にしたところで、現象界のすべての存在と同じく、時の力に打ち勝つことはできないのである。(119)

人間が結局材料として用いかつ利用するところの自然界の事物に関して、私が苦心の結果獲得した知識が、芸術家や職人の仕事を理解する上に、どれだけ役立ってくれたかは到底言いつくせることではない。(135-136)

もっとも、古典の地と呼ばれている場所となると、事情は違ってくる。もしわれわれがそうしたところで空想的な態度をとらないで、その地方のあるがままの姿を現実的に受け取れば、その地はつねにもっとも偉大な行為を生み出す決定的舞台となってくる。……地質学上の並びに風土上の眼識を働かせてきたが、そうすると不思議に歴史というものが生き生きと頭に浮かんできて、すべてが見違えるようになる。(207)

(ローマにて)なぜならば部分的に熟知していたものを眼のあたりに全体としてながめるとき、そこには新しい生活が始まるのだ。青春時代のなべての夢はいま眼の前に生きている。……疾くから見知っていたものが、今や相並んで私の前に横たわっている。どこへ行っても、新しい世界における知己が見出せるのだ。すべては私がかねて想像した通りであり、同時にすべてが新しい。……私はこの地に来て別にまったく新しい考えなども抱かず、格別変ったものを見出したとも思わなかった。しかし古い観察、観念もここでは非常に明確、新鮮であり、かつ連絡がとれていて、それは新しいものと見なすことができるのである。(213)

ラファエロの歩廊、アテネ派の絵について)そのときの気持は、あたかもホメロスをばところどころ消えかかった、破損した手記から判読せねばならぬ折のようだった。第一印象は私の心に十分の満足は与えなかった。しかしこれから徐々にすべてを見究めて学んで、始めて鑑賞も完全にできるであろう。(224)

偉大な更新を受けるものは、芸術心のみならず、実にまた道徳的精神である。(253)

その他、モザイック芸術の衰退する様子、ヴェルサイユ紳士との邂逅など。

イタリア紀行(上) (岩波文庫 赤405-9)

イタリア紀行(上) (岩波文庫 赤405-9)