『村上春樹 イエローページ3』 加藤典洋

2010/5/28読了

「稚拙な物語」について

アンダーグラウンド』、『約束された場所で』で得た、「ただの人」と「稚拙な物語」という新しい要素への覚醒が、村上氏第二期の飛翔のきっかけとなった、との指摘がある。
この「稚拙な物語」については、思い当たることがある。ここ数年の事だと思うが、社会が稚拙さ、イノセントであること、あるいは真面目さを積極的に受け入れるようになってきていると感じる。それは一面では肯定的にも見えるが、アイロニカルな立場を排除する窮屈さも感じる。
例えば映画や音楽など「メディアのなかの現実」の最近の成功事例をあげると、ウェブや批評等のメタ視点を取り込んだうえでの、洗練された稚拙さを、あえて斜に構えずに流通させているように思えるのだ。

海辺のカフカ』の解釈をめぐって

「コミットメント」、そして少年の成長を描く物語としては、『海辺のカフカ』に物足りなさを覚える、という意見を複数見たことがある。他者とのかかわりの無さなどが、その要因として挙げられている。それは論として納得できないものではないが、物語が与える感動から、私には皮相に思え、腑に落ちないものがあった。
しかし、この本では物語をめぐって次の解釈がなされている。アクロバティックな読みであるかもしれないが、論としてはこちらのほうが強いものに思えるのだ。

彼が(書法としての)コミットメントと一九九五年の河合隼雄との対話で述べるのは、物語へのコミットメントということであり、その意味は物語の闇の力に身を任せる、身投げしてみるということである。以前から基本的にはその方法がとられてきた。しかし、『アンダーグラウンド』と『約束された場所で』でのオウムとの向き合いを通過し、その方法意識が先鋭化された。意識的に自分に気づかれない心の中の闇に測深を下ろすことを、小説制作のモチーフに据えるようになったのだ。そういう深い闇をくぐって形象化される原型的な物語でなければ、『アンダーグラウンド』、『約束された場所で』で明らかになったオウム教祖の「稚拙な物語」、「荒唐無稽な物語」の力には対抗できない。(330-331)

うまくそのように受け取られるかどうかは人によるとしても、ここで村上が作り上げようとしている構図も、田村カフカが、自分の子としてのイノセンスを壊し、自分を捨てた母がかつての自分(と同じ見捨てられた存在)だったという洞察をへて、相手を許す気持ちになる、というかたちをとっていることが、ここでは重要だ。
この小説の奇数章は、奇しくもそのようなゼロ地点をかいくぐって「完全に損なわれた人間」がそれでも手にする、回復の可能性を描いているのである。(346)

村上春樹 イエローページ〈3〉 (幻冬舎文庫)

村上春樹 イエローページ〈3〉 (幻冬舎文庫)