『リトル・ピープルの時代』 宇野常寛

2011/10/22鑑賞
・リトル・ピープル=「歴史から切断された人々の、自らの人生を意味づけようとする欲望」。そして、村上春樹が「今、一番恐ろしいと思う」ものが、リトル・ピープルの及ぼすモーメント=「小さな物語」への依存=システムの生む「悪」となる。
・80年代の春樹は「世界の終り」(ナルシシズムの記述法)と「ハードボイル・ワンダーランド」(正義/悪の再定義)であり、前者が肥大した。90年代以降の両者を統合する試みでは、「ナルシシズムの記述法を温存したまま、再びコミットメントを試みる(正義/悪を記述する)」ことになるが、そこで凡庸な性暴力的回路が前面化する。
・それは、「母」的な存在に責任を転嫁してまでも、あくまで男性的な自己実現を提示しようとする、アナクロニズムである。レイプ・ファンタジー的な回路によって、男性性は反省・解体するどころか「強化」される。
・その要因が「父」になることをロマンチックな自己実現とする、想像力の躓きである。「世界に自動的に溢れかえった、無数の「父」たちのコミュニケーションにこそ、現代に出現した新しい「壁」を考える手がかりは隠されている」。
・「グローバル/ネットワーク化とは、世界をひとつにつなげ、<外部>を失わせる力だ。そして世界から本当に<外部>が消滅したとき、それでも私たちは想像力を駆使するために、「変身」するために「仮面ライダー」は蘇ったのだ。仮面ライダーたちの「変身」、そしてその意味の更新は私たちがこの<外部>=<ここではない、どこか>を喪った世界で<いま、ここ>を多重化することを可能にするのだ。まるで、システムをハッキングして書き換えるように、私たちは<いま、ここ>に留まったまま世界を変える想像力を手にしたのだ。そのひとつの結実が、『ディケイド』における「壁」(巨大なもの)についての想像力の更新=歴史をデータベースとして捉えることによるハッキング的なコミットメントの提示であり、その反動としての『W』におけるコミュニタリアン的な最適解への縮退だったはずだ。
仮面ライダーたちは<いま、ここ>に立ったまま、世界を変えるのだ。それも、革命ではなく、ハッキング的に。」

リトル・ピープルの時代

リトル・ピープルの時代