『西部劇論 その誕生から終焉まで』吉田広明 4/4

・六〇~七〇年代には、アメリカなるものについて、疑義を呈する西部劇として、一連の「アッシド・ウエスタン」が作られる。西部劇には活劇志向とアメリカを問う自制的傾向があり、後者は四〇~五〇年代で言えばノワール、六〇~七〇年代で言えばカウンターカルチャーという具合に、時代(アメリカ社会の転換期)の色を帯びながら露呈する。(341)
□ 最後の一章は、クリント・イーストウッド論となっている。
・1965年の『荒野の用心棒』は、「既知」こそが新鮮さを担保したという意味で新しさがあった。古典期の西部劇のシンプルな換骨奪胎、ヒーローのありようの回帰。この作品に限らず、イーストウッドの西部劇には、どこかですでに見たことがあるような印象がつきまとう。(366)
イーストウッドは『アウトロー』において、彼の西部劇のスタイルを確立する。それは典型を利用しつつ、そこから逸脱し、新たな解釈やひねりを加えること。『ペイルライダー』までは、この方法論のヴァリエーションであり、洗練であるのだが、やがでその典型時代を疑うときが来る。(381-382)
・『許されざる者』では、西部劇における暴力、銃、そして観客のあり方に、根本的な疑いが向けられる。主人公はリンチされ殺された仲間の復讐として、「丸腰の」保安官やリンチに加わっていない酒場の店主を打つ。保安官にしても、町の秩序を守る名目で、必要以上のリンチ行為に及び、それはサディズムの様相を帯びる。そして、許容を超えた暴力に、観客は歓喜するという構造。それらを暴き出すことが、この映画をどこか居心地の悪いものにしている。(398)
・そして、『許されざる者』では、言葉ないし伝説、神話も同じように見直される。(イーストウッドによれば「西部を脱神話化する寓話」)。たとえばガンマンの境位について。殺すことはたやすくない、銃はいつも発砲されるとは限らない、狙いがいつも正確とは限らない、こららの事が映画の中で繰り返し描かれる。西部劇の主人公であるということは、暴力の無根拠に、自身の伝説の不条理な増殖に、曝され続けることであり、そのことを作品のテーマとしたことに、この作品の究極的なところがある。(398,401)