ときどき思い返したように読む坂口安吾を読みます。
彼が多くのエッセイの中で言っていること、その一つである「現実へ堕ちよ」という主張が、この本でも繰り返し主張されます。
たとえば、『教祖の文学』では次のような芸術論を述べ、小林秀雄を「鑑定家の目」として批判します。
生きている奴は何をしでかすか分らない。何も分らず、何も見えない、手探りでうろつき廻り、悲願をこめギリギリのところを這いまわっている罰当りには、物の必然などは一向に見えないけれども、自分だけのものが見える。自分だけのものが見えるから、それが又万人のものとなる。芸術とはそういうものだ。(161)
また、自らを大衆の立場に置き、大衆に受け入れられるもの、すなわち現代の芸術である、ということも彼の特徴的な観点となっています。
美や芸術というものは、助平根性を遊離して、神韻ヒョウビョウと、星の如くに高く輝くようなものではなかろう。生身の助平根性と一緒に、喜怒哀楽、嫉妬もし逆上もする現実の生活と一緒にあるものだ。
一般大衆が芸術を愛するときは、自分の生活として愛しているのであり、恋の伴奏、必要のためのジャズでありヴギウギであり、実用品なのだ。つくる方もそれを承知の、俗悪な企業なのである。日常品としての実用性、実質をそなえていることが必要だ。ショパンでも、モオツァルトでも、それが出来たときは、そうだ。当時のジャズであり、ヴギウギであり、日常の必要品であったのだ。
極端な主張のようにも思えますが、本能や快楽を重要視する一方で、職業人的な見方を常に持っている彼の主張には、やはり説得力を感じます。
- 作者: 坂口安吾
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1991/06
- メディア: 文庫
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