『日本の橋』 保田與重郎 2/2

「日本の橋」でも、著者は知識や理屈ではなく、情感に重きを置いている。

日本の橋は材料を以て築かれたものではなく、組み立てられたものであった。原始の岩橋の歌さへ、きのふまでこゝをとび越えていった美しい若い女の思い出のために、文字の上に残されたのである。その石には玉藻も使う。その玉藻は枯れ絶えても又芽をふくものだのに、と歌はれた。日本の文化は回想の心理のもの淡い思い出の陰影の中に、その無限のひろがりを積み重ねて作られた。内容や意味を無くすることは、雲雨の情を語るための歌文の世界の道である。日本の橋は概して名もなく。そのうえ悲しく哀つぽいと私はやはり云はねばならぬ。(37)

 このように日本の橋に対する想いを綴ったあと、著者の思考は自由に飛翔し、阿仏尼が三河八つ橋の跡地に抱いた印象や、心細い木橋の描かれた浮世絵に西洋人が感動した結果、浮世絵を異常に尊重するようになった日本人に対する批判など、「橋」にからめた様々な小話が続く。
 そして、時おり次に引用するような、はっとさせられる洞察に出くわしたりもする。

三條橋畔に立っている高山彦九郎の皇居を拝跪する銅像は、少年の日に知って、しかも人生の危機に思いもかけずに想起されるやうな異常な記憶の一つとなるだろう、あゝいふたった一行の文字で表現され、しかも無数の大衆と結びつくような、文学、物語でもよい、さういうものが、世の中にあるといふ事実が怖ろしい。高山彦九郎について人の知ることは、幕府の世さかりに、三條の橋上からもれる皇居の燈を拝したという、僅かに一行の物語である。これはおそるべき文学の一例である(52-53)

 論考の末尾に近い部分では、次の挿話が語られる。他の個所同様、著者の主張は明確にはつかみにくいが、西洋の「理知」と日本の「生活の知恵」を比較し、後者にこそ人間の自然の発露があるのではないか、と主張しているように思えた。

末期封建の世の徳川政府さえ架橋を政策上なさないで大水のあと日は通行を止めていた。最も自然な生活を楽しんで、川止めの日は人間の遊びに対岸の橋本の宿場などで過された、征服を思ふ代りに楽しみを作る口実とした。かゝる不自由をなほ日本人は不思議とせずに楽しみとした。さういふとき制約についての近代の知識をのろまに語るのもよい。(64)

改版 日本の橋 (保田与重郎文庫)

改版 日本の橋 (保田与重郎文庫)