『魔法の世紀』 落合陽一 2/2

あえて露骨な表現を用いること

 ボルタンスキーは、昨年の「瀬戸内トリエンナーレ」で最も印象に残った芸術家だった。その理由は、作品から感じられる思想ももちろんなのだが、何よりも、作品の規模の大きさ、完成への手間のかけかたにあることは否定できない。簡単にいえば、他の作品よりも「わぁすごい」と思えるインパクトがあるのだ。
 次のくだりを読んだとき、私が連想したのは、そのようなボルタンスキーの芸術にふれた経験であった。

 1990年代後半になって登場した、ソーシャルメディアGoogleのような情報のプラットフォームは、私たちがローカルなコミュニティでいくらでも文脈を生み出すことを可能にしました。そういう状況では20世紀のマスメディアが構築した文脈の支配力は低下せざるを得ません。もはや「文脈のゲーム」は飽和しており、それで多くの人々を感動させるのは厳しくなっているのです。その時に僕たちは、20世紀に弱体化していた「心を動かす技術」としての「原理のゲーム」を、再び必要とし始めたのかもしれません。
 そこでは具体的に「驚きが大きいもの」や「露骨な表現」――いわば20世紀に「B級表現」と呼ばれたものが台頭していることも重要です。こうした作品が現在のアートを巡る状況と、どこか親和性が高くなっているのです。驚き、感動、恐怖、没入感――そんな感覚に直接的に訴え掛ける装置としてのアートの存在が、もはや無視できなくなり始めているのです。逆に、アニメ・漫画・ゲームなどの大衆芸術の文脈では、すでにB級表現の飽和は顕著になりつつあると感じます。
 これを僕は「原理のアート」と呼びたいと思います。それは結果的に、20世紀に軽く見られてきた感覚的な快不快が、再び一種の「共通言語」として受け入れられる芸術となるでしょう。僕のアーティストとしての現場感覚で言うならば、どれだけ心を強く動かすか、どれだけ感覚に訴えかけられるかだけが勝負になり始めています。(89-90)

工学的なパラダイムシフト

 最近は「パラダイム」という言葉はあまり聞かなくなったが、10年以上前は「パラダイムシフト」のような言い方を、ときどき耳にした。
 その言葉をあえて使うなら、落合氏は、コンピュータを利用し、工学的なパラダイムシフトを目指しているようだ。
 下のアイデアは、まさに「原理のアート」の実践と思えるが、モノとして完成すれば、確かに感覚を揺さぶられるものだと思うし、何よりも、単純に「すごい」。

 むしろ僕が目指しているのは、、情報ハードウェアとしての「ディスプレイ」をその都度、動的に形成しうる環境の研究です。別に平面の表現にこだわっているわけではありません。つまりは、そのときどきに応じた視覚メディアを形成してくれるようなアーキテクチャを構築したいのです。(55)

 光が影響するのは視覚、音が影響するのは聴覚、という区別は「映像の世紀」以前の、「人間中心主義のメディア観」の時代の発想です。それに対して僕が夢見ているのは、「音が再生される光プロジェクター」や、「音が聞こえてくる触覚ディスプレイ」といった、人間の感覚の境界を飛び越えたメディアです。つまり、一度人間の感覚器の写像によって縛られた制限を取り払うことで他に見えてくるものは何かという問題提起です。(175)

魔法の世紀

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