モーツァルトと二人の批評家 3/4

 楽理の知識と、豊かな文学的教養に基づいた吉田秀和氏のモーツァルト論。それに比べて、小林秀雄氏のモーツァルト理解は、一面的なのだろうか?
 昭和二十一年に発表された、小林氏の代表作『モオツァルト』を読み直してみる。ケレン味溢れる言い回しのなかで、しかし「疾走する悲しみ」というフレーズが響くのは、その一部でしかない。
 吉田氏の評論が、ひとつひとつの楽曲を微に入り細を穿って論じるなら、小林氏の『モオツァルト』は、その音楽というか、人格全体を論じているかのようだ。
 例えば、肖像画から読みとれるモーツァルトの表情と、その作品の印象を、氏は次のように述べる。

 モオツァルトは、大きな眼を一杯に見開いて、少しうつ向きになっていた。人間は、人前で、こんな顔が出来るものではない。……ト短調シンフォニイは、時々こんな顔をしなければならない人物から生まれたものに間違いない、僕はそう信じた。何というたくさんな悩みが、何という単純極まる形式を発見しているか。内容と形式との見事な一致というような尋常な言葉では、言い現し難いものがある。全く相異なる二つの精神状態の殆ど奇蹟の様な合一が行われている様に見える。……ほんとうに悲しい音楽とは、こういうものであろうと僕は思った。その悲しさは、透明な冷い水の様に、僕の乾いた喉をうるおし、僕を鼓舞する。そんな事を想った。(15)

 モーツァルトの、一つの作品や楽章の中での変化の多様さは、吉田氏と同じように、小林氏も主張する。それは、次のような映像的表現の中に現れる。

 捕えたばかりの小鳥の、野生のままの言い様もなく不安定な美しい命を、籠のなかでどういう具合に見事に生かすか、というところに、彼の全努力は集中されているように見える。生まれたばかりの不安定な主題は、不安定に堪え切れず動こうとする。まるで己れを明らかにしたいと希う心の動きに似ている。だが、出来ない。それは本能的に転調する。若し、主題が明確になったら死んで了う。ある特定の観念なり感情なりと馴れ合って了うから。(53)

 この批評は、新潮文庫の『モオツァルト・無常という事』に収められているが、次に引用する作曲家の生きざまは、この本のモーツァルト以外を論じた文章のなかで、小林氏が何度も変奏するものである。ここからは、モーツァルトの仕事を通して吐露された、当時の著者の美学を読みとることができる。

 モオツァルトは、何を狙ったのだろうか。恐らく、何も狙いはしなかった。現代の芸術家、のみならず多くの思想家さえ毒している目的とか企図とかいうものを、彼は知らなかった。芸術や思想の世界では、目的や企図は、科学の世界に於ける仮定の様に有益なものでも有効なものでもない。それは当人の目を眩ます。或る事を成就したいという野心や虚栄、いや真率な希望さえ、実際に成就した実際の仕事について、人を盲目にするものである。大切なのは目的地ではない。現に歩いているその歩き方である。現代のジャアナリストは、殆ど毎月の様に、目的地を新たにするが、歩き方は決して代えない。そして実際に成就した論文は先月の論文とはたしかに違っていると盲信している。
 モオツァルトは、歩き方の達人であった。(67)

 その歩き方とは何か?それは「模倣」である。

 彼は、当代のあらゆる音楽的手法を知り尽した、とは言わぬ。手紙の中で言っている様に、今はもうどんな音楽でも真似出来る、と豪語する。(67)