書きあぐねている人のための小説入門/保坂和志

2008/6/22-6/28
著者の小説に対する考えかた、特に著者の小説を読むにあたってポイントとなるであろうことが書いてある。大塚英志氏の『物語の体操』も同時に読んでいたが、二人の創作に関する考え方の違いが比較でき、興味深かった。
「(哲学、科学、小説の三つによって包含されているのが社会・日常であるため)小説は日常的思考様式そのままで書かれるものではないし、読まれるべきものでもない。日常が小説のいい悪いを決めるのではなく、小説が光源となって日常を照らして、ふだん使われている美意識や論理のあり方をつくり出していく。」(57)
「面白いものは時代劇といえども一九七〇年という時代とどこかで響き合っているはずで、だから面白いものには“普遍性”ではなく、その時代の“今”がある。(中略)ケータイの話に戻すと、携帯電話の機能はメール→写メールと次々に変わって、いちいち追いかけていったらキリがないように思えるが、基本的な立場としては「それでもやっぱり極力書くべき」だと私は思う。なぜなら、それが“今”なのだから。そのとき「内面の変化」をどうとらえるか、つまり「変化」をみるか「不変」を見るか、などの社会の論調と距離をおいた人間観が問題になってくる」(82-83)
「多くの人物を役割に配置せずに、何をしゃべり何をやるか事前に決めないまま書いていくことで、書き手の“私”についての感じが変わってくる。自我が薄められる、とでも言えばいいか、自明のものと思っていた“私”がそうでもないような気がしてきて、風通しがよくなる、とでも言えばいいか。」(107)
「ふだん経験するいろいろな面白さを小説の中に持ち込むことが、小説にとって面白いとはどういうことかを考えることであり、小説の面白さに対して意識的だということである。それが小説を相対化するということで、書き手が「小説の外に立つ」ということなのだ。」(156)