中世のしぶとい生命力 ―『中世の秋1』ホイジンガ 6/6

 この巻の終わりは、中世末期の宗教に関する考察となっている。「日常生活をおおう宗教」という視点で、当時の様相を描いているのだが、意外にも現代に通じる事柄が多い。
 例えば、中世できわめて世俗化、日常化していた、聖者崇拝に対する論評。

 宗教を、つつしみもなく罪の生活にまみれさせ、もって信仰を汚しているこれらの事例は、実は、宗教に対する素朴な親しみに発していたのであって、そこに、正面きっての不信仰をみることは出来ないのである。およそ、すみずみまで宗教性のしみとおっているような社会、信仰をなにか自明の原理としてうけいれている社会だけが、こういったすべての行き過ぎ、退廃を知っている。このように、なかば堕落した宗教実修の毎日毎日のくりかえしにただ従っている人びとと、説教壇上の修道士の炎の言葉をうけ、突如、信仰の激情に捉えられる人びとと。実はこれは同じ人々だったのだ。(398)

 この宗教の日常化は、卑近な例でいえば、現代のおみくじや星占いなどにも通じるだろう。そして、それは次のような結果をもたらすかもしれない。

 なぜ、(宗教改革に対し)聖者崇拝は、無抵抗であったのか。聖者崇拝が、ほとんど「のこりかす」になってしまっていたからではないか。その思想内容のほとんどすべてが、絵に、伝説に、礼拝式に表現しつくされ、もはや、そこには、戦慄の畏怖観がすこしも残されていなかったからではないか。聖者崇拝は、描かれぬもの、いいあらわしえぬもののなかに深くおろしていたその根を失ってしまった。(430-431)

 ただ、著者の言うように「戦慄の畏怖観」がなければ、宗教は根を張れないものだろうか。生活のなかに、たとえば、年始のイベントとしての初もうででもよいし、おみくじでも、神前結婚式でもよいが、そのようなことをしなければ、私たちはどこか罪悪感やもの足りなさを感じてしまうということ、それが宗教の「根」となっているのではないか。その意味で、日常化された宗教の力は、それなりにしぶといのではないかと思う。
 そして、ここまで読めば、現代に残る中世は宗教だけではないことが分かるだろう。ほんの一例を引用するが、
「情熱の衝動は、じかに、政治行動にあらわれ、利害も打算も無視されることがしばしばだった。」
「想い出したように、ときおり当局は、きびしい正義のキャンペーンを展開した。」
 とくに昨今の政治状況をみれば、時代の裂け目から、過去はいつでもその顔を出してくることが分かるのだ。