時の廃墟/沢木耕太郎

2008/5/29-6/17
一九七〇年台〜八〇年代の日本において、時代を象徴する人々、あるいは時代の影の側にいながらも、その時代の特性を体現している人々を描く。
その取材の報告も興味深かったのだが、感銘深かったのはあとがきの次の文章である。あとがきの中で、著者は取材時の思い出を語りながら、次のように書いている。
「あの二人の女の子はいまどうしているのだろう。あのとき八歳だったから、もう三十五歳を超えているはずだ。いや、あの子たちだけでなく、彼女らの父親を含めて、あの建場に出入りしていたすべての人たちはいまどうしているのだろう。
彼らがいまどうしているか私は知らない。瑞江のあの建場には、それから二度ほど足を運んだことがあったが、以後、訪ねていない。
私はある世界に入っていき、出てくる。出てきたあとも付き合いを続けている人もいれば、それきりになってしまう人もいる。だが、一度別れると二度と会えなくなる人のどれほど多いことか。」(510)
そして、氏の現在の思いについて次のように述べている。
「入り、出て、書く。そのことに熱中していた時代は間違いなくあった。当時も、すでに「クレイジー」という熱中ではなかったにしても、「アブソーブ」の熱中くらいはしていたはずだ。
しかし、いま、私には、私を熱く誘う未知の世界は見えていない。」(510)
昨年の年末から著者の作品を何冊か読んだが、最近の文章ではいずれもこのような諦観を感じる。それは著者が年齢を重ねたからなのか、それとも時代のせいなのかわからないが、どうしても後者の要因が大きな気がしてしまうのだ。