『浄瑠璃を読もう』橋本治 1/4

 浄瑠璃のストーリーを理解するためには、江戸の庶民の考え方をまず理解しなければならない、というのが著者の基本的な考え方。ただ、著者は義太夫節や台詞の格好良さが好きで、人形浄瑠璃を鑑賞しているとのこと。
 私も歌舞伎に関してはそれなりの鑑賞経験があるが、ストーリーは追えても、「腹に落ちる」ということが無いことが多かった。それが、鑑賞の記憶がいまいち残りにくい理由たのかもしれず、その意味で「江戸時代的思考」を説く著者の姿勢は支持できる。
 例えば、一見した浄瑠璃の奇妙さとして、著者は次の例を挙げる。

「“有名なこと”はもう有名なんだから、それをそのまま提示するような能のないことはしない」というのが浄瑠璃のドラマ作者の美意識だから、そういうものはみんな「裏」に隠されてしまう。その代わりに、「有名なこと」の裏にある話が表に出て、そのエピソードによって「有名なこと」が語られるというのが、浄瑠璃ドラマの基本なのである。(283)

 この作劇術こそが、江戸時代的思考であり、これが分からなければ、なぜ歌舞伎や文楽の主人公やストーリーがあのようなものなのか、よく理解できないということになる。

仮名手本忠臣蔵』と参加への欲望

 江戸時代の人間は、別に有名な「大石内蔵助=大星由良助」になりたいとは思わないのである。自分がわざわざならなくても、自分のいる外に「赤穂浪士の討入を仕切って統率した大石内蔵助」という立派な人物はいるのである。いるのだから、もうそれでいいのである。そこに参加の余地はない。なんとかしてその「有名な事件」に参加したいと思って、どこかに参加の余地はないかと思ってよく見たら、意外なところに穴があった。殿中松之廊下で浅野内匠頭を抱きとめた男――「一体彼は、なにを考えていたんだろう?」と、傍観者でしかない江戸時代の町人たちは、「傍観者として事件に参加していたその人物」を探し当ててしまったのである。だから加古川本蔵一家のドラマが、『仮名手本忠臣蔵』の主軸にもなってしまう。(28)
 「現実を踏まえて、自分たちに必要なドラマだけを拾い上げる」――江戸時代の浄瑠璃作家はそういうことをやって、しかもその通りに、この虚構だらけのドラマ『仮名手本忠臣蔵』は「忠臣蔵の最高峰」として残っているのである。その「虚構だらけの最高峰」という矛盾したものに対して、「事実はどうだ?」というリサーチは近代以後盛んにおこなわれるが、結果は大したものではない。「虚構から出発して組み立てられた、身にしみる必要な真実」の方が、ずっと重要だというだけのことである。……いま我々がこの「別種の構築」を必要としている理由は、それが「知性」という名を持つものだからである。(68)