世界は「使われなかった人生」であふれてる/沢木耕太郎

2008/6/1-6/16
著者が「一映画ファン」として書いたエッセイを収めているが、紀行文家としての著者の思いは、やはりあとがきの次の文章に見られる。
旅をすると、思いがけない経験や情景に触れることで、その国の何かがわかったような気になってしまうが、彼らの言葉や行動の奥にある生の実相にはほとんど触れることができない。そして、旅にはその空虚さと苛立ちが常に付きまとう。しかし氏は『サラーム・ボンベイ』という映画で、異国の人々と再会することになる。
「私はそれを見ながら、かつてインドの裏町ですれ違った人々が、このような言葉を交わし、このような冗談を言い合い、このような日々を生きていたのだということを初めて知らされるような思いを味わった。」
しかし、それは『サラーム・ボンベイ』だけに限らない。
「スクリーンの向こうには、いくつもの街があり、人がいた。そこでさまざまな街と出会い、人に出会うことができた。映画を見ることで、確実に「もうひとつの旅」ができる。」
私自身、かつて旅に魅力を感じなくなり、小説や映画にそれに代わるものを求めていた時期があった。しかしその時は、それらをフィクションとしてとらえていた向きがあった。いま再び、映画にかつての旅を見いだそうとするとき、そこに異国の生を見いだそうとすれば、作品は違った面を見せてくれるかもしれない。退屈な日常をやり過ごす効用を映画に求めるとすれば、その中で「もうひとつの旅」をするやり方が、いまの私には最も魅力的な方法だと思える。