自由を考える/東浩紀・大澤真幸

2007/9/24-10/7

「偶有性」と「共感」

大澤「偶有性というのは、他でもありうる、ということです。様相の論理を使えば、偶有性は、不可能性と必然性の否定です。つまり、可能だけれども必然ではないことが、偶有的なわけです。たとえば、今、皆さんは、ここに来ていますが、やめて別のところにも行けたのだと考えると、ここにいることは、偶有的です。しかも、単に、他の行為の選択肢もあったという意味での偶有性だけではなく、さらにその前提には、私が私であったということがまるごと偶有的でありうるということ、つまり私がまるごと他者でありえたという意味での、もっと強い偶有性があるのではないか。それを、僕は、「根源的偶有性」と、ときに呼んだりしているのです。」(76)
「私がこの私である」という単独性と(根源的)偶有性は不即不離につながっている。むしろ、同じことの二面である。たとえば「私が私である」という言明は、そう言ったとたんに、その否定に導かれそうな不安定さがある。それが単独性が根源的偶有性に反転する瞬間となる。
東「匿名になれるという想像力がなければ、人は、普遍的な共感を、言い換えれば、社会全体を見渡す視点を手に入れることができないのではないか。セキュリティの権力というのは、ある意味で、人間の偶有性を奪う権力だともいえる。もし今、情報管理社会の進展に危惧を抱くとしたら、個人が数に還元されるのがけしからんといった話ではなく、この点にこそ注目すべきだと思います。」(79-80)
また、「偶有性」と「愛すること」とのかかわりも248ページに述べられている。

ヴァーチャリティと暴力

大澤「極度なヴァーチャル化、ヴァーチャルな名前を媒介にしてシミュラークル世界やデータベースの体系のなかに位置を占めるということは、自己や他者の身体に痛みを直接に与える操作と深く結びついているのではないか。データベース化された世界に組み込まれるということと、自他の身体の上での痛みを直接に享受するということ、この二つのことは、まるで、相互にエネルギーを備給し合っているかのようにも見える。(中略)オウムの事例も、酒鬼薔薇聖斗の事例も、そうした事実を示唆しているのではないか。」(106)

見られていないかもしれない不安

大澤「パノプティコンは、「自分が見られているかもしれないという不安」を人がもっていることを前提にしている。ところが「見られていないかもしれない」というのが現代の不安になっているわけですね。つまり、現在、人は、見られていないかもしれないという不安に怯えていて、むしろ見られたい、現れたい、つまり表現したいわけですよね。携帯電話による若者たちのコミュニケーションなども、こうした不安と欲望の表現になっているわけです。自分が、つねに、他者に対して、何者かとして見られていたいわけです。プロファイリングやアマゾン・ドット・コムのカスタマイズされた推薦図書なんかもそれに対応している。それは、ユーザーの「自己」が何であるか教えてくれ、「自己」が他人の目にとって何であるかを教えてくれるわけですよ。」(205-206)