不可能性の時代/大澤真幸

2008/7/5-7/19

〈不可能性〉とは何か

「〈不可能性〉とは、〈他者〉のことではないか。人は、〈他者〉を求めている。と同時に、〈他者〉と関係することができす、〈他者〉を恐れてもいる。求められると同時に、忌避もされているこの〈他者〉こそ、〈不可能性〉の本態ではないだろうか。
われわれは、さまざまな「××抜きの××」の例を見ておいた。カフェイン抜きのコーヒーや、ノンアルコールのビールなど。「××」の現実性を担保している、暴力的な本質を抜き去った、「××」の超虚構化の産物である。こうした、「××抜きの××」の原型は、〈他者〉抜きの〈他者〉、他者性なしの〈他者〉ということになるのではあるまいか。〈他者〉が欲しい、ただし〈他者〉ではない限りで、というわけである。」(192-193)

回帰する第三者の審級

第三者の審級が次第に摩耗し、社会の各所に「終わり」を構築する機能が失われている状況に対し)「こうした傾向に抗して、「終わり」を徴づける感覚を取り戻そうとすれば、どうなるのか?第三者の審級が摩耗していく(相対化されていく)傾向に対抗して、あえて第三者の審級を再構築しようとすれば、どのようなことがなされるだろうか?「終わり」ということを真に徹底したものにすること、要するに、全的な破局をもたらすこと、これが解答である。なぜか?第三者の審級が相対化されてしまうのは、それが、何ごとかを「善」として、あるいは「理想」として措定し、肯定しているからである、どのような積極的な善や理想も、より包括的な枠組みの中では、相対化されてしまう。だが、一切の肯定的な善をも措定せず、すべてを否定したとすれば、これを相対化することはできない。このとき、この破壊の力の担い手として、徹底した否定の作用の帰属点として、超越的な第三者の審級が回復してくるだろう。まさに、すべてが破壊され、すべてが否定されるがゆえに、かえって、何かが、超越的な何かが残るのである。
われわれのこの時代に、「現実」への逃避が、つまり破壊的・暴力的な現実への情熱が現れ、人々を捉えるメカニズムは、以上のような論理ではないだろうか。」(211-212)

神的暴力の実践

「神的暴力の要諦は、神の無能を、つまり超越的な第三者の審級の不在を引き受けることにある。(中略)第三者の審級がこっそりと回帰してくるのを抑止しつつ、その不在を敢然と引き受けなくてはならない。
それは、具体的にはどのような実践を指示するのだろうか。つまり、神的暴力という概念の政治的な含意は、何であろうか。それは、活動的で徹底した民主主義以外のなにものでもあるまい。統治される人民の意志のほかに、あるいはその外に、神(第三者の審級)の意志を想定することはできない、ということになるからだ。統治者と被治者の厳密な同一性によって定義できるような、活動的な民主主義こそ、神的暴力の理念の直接の具体化である。」(272-273)
その実践への希望として、著者は数学理論における「ランダムな線」、それに対応する現実の実践としてアフガニスタンで活動する医師中村哲氏と、松本サリン事件の被害者河野義行氏の行動を挙げている。