ゼロ年代の想像力/宇野常寛

2008/9/7-9/16

ゼロ年代とはどういう時代か

「重要なのはその物語の内実ではない、態度=あり方なのだ。ゼロ年代における物語回帰の問題点はむしろ「人間は何か(の価値、物語)選ばなければいけないのだから、信じたいものを信じればいいのだ」という「あえてベタに」生きればいいという思考停止にこそある。付け加えるのならば、まったく同じ構造をもつ「つくる会」と「ニート論壇」が互いに反目しあうことが象徴するように、異なる「発泡スチロールのシヴァ神」を信じる共同体(小さな物語が規定する共同体)は互いにその真正さを政治的な勝利で証明するために争うことになる。
ゼロ年代とは、こうして決断主義的に選択された「小さな物語」同士の動員ゲーム=バトルロワイヤルの時代なのだ。そしてこの動員ゲームとはポストモダン状況の本来の姿が露呈した形だと言える。そして前述の通り、このゲームからは誰も逃れることはできない。「何も選ばない、という選択」もまた、ひとつの選択=ゲームへのコミットである以上、ポストモダン状況下にある現代社会においては誰もが決断主義者として振舞わざるを得ないのだ。」(96)

ポストゼロ年代の物語の可能性

木更津キャッツアイに関し)「宮藤は、「キャラクターのように」生きているぶっさんに身も蓋もない形で訪れる「死」を、「終わりなき日常」を生きているかのように見えるキャッツたちに確実に訪れる「終わり」を描いたのだ。そうすることで、それまで歴史から断絶し、物語にアクセスできない空間とされてきた郊外(ポストモダン状況)を、従来の想像力が捉え損なってきたその二面性を正しく捉えなおし、優れた「郊外小説」を生み出したと言える。
ここでは、それまで「終わりなき(ゆえに絶望的な)日常」として捉えられていた郊外的な中間共同体での物語が、「終わりのある(ゆえに可能性に溢れた)日常」に変貌するのだ。この決定的な達成はおそらく、ゼロ年代前半のサブ・カルチャー史において最も重要なものに他ならない。九〇年代前半から続く「平坦な戦場=終わりなき日常」という「郊外的な絶望」に基づいた一連の想像力を、宮藤はこの一作で完全に過去のものとしたのだ。世界がつまらないとあなたがもし感じているなら、それは本当に世界のせいなのか、一度点検してみるといいだろう。日常の中にいくらでも物語は転がっている。あとは、それを掴み取るための覚悟と意志がもてるかどうか、だ。」(151-152)

ゼロ年代を乗り越えるために

「本書では物語回帰を受け入れながら、倫理のようなものを獲得する方法を考えてきた。キャラクター的な実存がもたらす他者回避を、いや他者回避の孕む暴力をどう解除するか――「決断主義の困難」とも言うべきこの課題に答えることこそが、本書の主題であったといっても過言ではないだろう。」(328)
「現代における成熟とは他者回避を拒否して、自分とは異なる誰かに手を伸ばすこと――自分の所属する島宇宙から、他の島宇宙へ手を伸ばすことに他ならない。
(中略)たしかに、私たちは断片のような世界に生きている。しかし、生きていくためには他の断片に手を伸ばさなくてはならない。原理的に「降りる」ことができない学校の教室や、世界経済というシステムのことを考えれば余計にそうだ。
ドアを開けろ、そしてまだ見ぬ誰かにその手を差し伸べろ――」(328-330)