プルーストを読む/鈴木道彦

2007/7/24-9/4(再読)

想像力・知覚・幻滅

「バルベックは、荒れ狂う嵐と、霧と、ノルマンディ式ゴシック建築の教会だけから出来ているわけではない。またその教会にしても、「ノルマンディ式ゴシック」というだけでは、具体的なものは何一つ分からない。しかし現実にその前に出れば、思いもかけなかったさまざまな細部が目に入るだろう。プルーストは、この想像と知覚の違い、不在の対象を設定する意識と、目の前にその対象を見つめる意識の違いを、執拗に追及した作家である。それがゲルマント公爵夫人にせよ、ラ・ベルマやバルベックにせよ、あるいは恋人にせよ、かならず幻滅という形であらわれたのは、美や幸福を味わうためには、どうしてもそこに想像力が必要になるからだし、想像の対象は、それを目の前にしたり、それにふれたりした途端に消え失せて、知覚の対象に変わるからだ。」(75-76)

ブロックの地位上昇と振舞いの変化

大戦後、ユダヤ人社会に変化が起こり、ブロックの地位が上昇していく。名前までジャック・デュ・ロジェと生粋のフランス人らしいものに改め、脱ユダヤを完成させる。「すると面白い現象が起こるのだ。彼の「育ちの悪さ」がすっかり消えてしまうのである。彼は今や引っ張りだこで、多くの輝かしい招待も断らなければならないくらいの身でありながら、それを口にせず、招待を断ったのを自慢もしないようになる。「慎しみ、すなわち行動と言葉にあらわれる慎しみは、社会的な身分や年齢とともに、言ってみれば一種の社会的な年齢とともに、彼の身にそなわった」。こんなふうに欠点や長所を、ほとんど個々人の外部にある普遍的で避けられない条件のように描くのは、プルーストの特徴である」(144-145)

プルーストの恋愛観

「言い換えれば、意識存在としての他者を全面的に自分のものにしたいという欲望である。これがプルーストの考える恋愛の理念であり、条件だが、またこれが恋愛を不可能なものにしている原因でもある。相手の意識を捉えようとしても、意識はするりとこちらの手から逃れて遁走してしまうからだ。逃れるからそこに追跡が始まる。また意識は手にとって確かめることもできないから、それを想像することが必要になる。というのも、想像力が目指すのは、けっして目の前にある知覚の対象としての肉体ではなくて、その背後にある目に見えないもの、あるいは不在のものだからだ。しかもこの想像力を欠いた恋愛は、プルーストには考えられない。自ら肉体を差し出す娼婦が、容易に恋愛の対象にならないのはそのためだ。」(180)
「この考察は、プルーストの描くすべての恋愛に当てはまるだろう。たとえばスワンは、常に身を任せようとしている高級娼婦オデットに、初めはそれほど気を惹かれるということがない。彼が夢中になり始めるのは、かならず自分を待っているはずだったサロンに相手がおらず、こうして普段の習慣が絶たれて、オデットの行動に自分の知らない部分のあることが明らかになってからだ。」(181)
「嫉妬が静まると、語り手は自分がアルベルチーヌを愛しているのではなくて、この関係にもう飽きが来ていることに気づく。むしろ別れて自由になった方がいい、という考えが押し寄せてくるのは、そのようなときだ。」(185)

実人生を超える芸術

「もし芸術が本当に実人生の延長にすぎないならば、そのために何かを犠牲にする価値があるだろうか?そうなれば、芸術も人生同様に非現実的なものになるのではあるまいか?
今や非現実的なのは実人生の方で、現実的なものは芸術のなかにこそ求めなければならない。それは実人生の大部分、つまり日常的な生活が、あの社交や、見栄とスノビズムに支配されたサロン生活や、そこに飛び交う空疎な才気や、つまらない会話や、嘘で塗り固めた恋愛や、他人への配慮などといった、所詮は無価値なもの、「失われた時」によって出来上がっているからだ。ところが音楽は、それを聴いた途端に直接的な感動があり、こうした無味乾燥な実人生とは別な世界が開かれたような印象を与える。」(209-210)

最終巻の取り扱い

この本は本編からの引用が多く引かれているが、他の巻に比べ最終巻からの引用が極端に少なかった。最終巻は物語の核心にふれる部分であるにもかかわらず、このような扱いになっていることによって、この巻がどこか秘教的なものとされているような印象を受け、ある種の面白さを感じた。