90年代の都市論

以前日記で『攻殻機動隊』のことを書いたが、この映画の特徴として舞台背景となる「都市」が詳細な描写がある。そして、この描写で私はウォン・カーウァイ監督の『恋する惑星』や『天使の涙』を思い出した。どちらも現代のアジア的大都市が描かれているが、これらに共通する印象とした感じたものは、都市のみずみずしさ、とでもいうべきものだ。
90年代初頭〜半ばは、映画の世界でアジアが注目を浴びた時代だった。この時代に中国や香港、台湾の監督が国際的に注目され、日本でも北野武の評価が高まってきた。また、音楽など他のエンターテイメントの分野でも、これらの国の様子が注目を浴び始めていた。私自身はそれらにリアルタイムで触れていたわけではないが、テレビ番組などでその報道を見るたびに、新鮮な印象を抱いていたことを覚えている。
この新鮮な印象は、上記の「みずみずしさ」と共通するものである。『攻殻機動隊』とカーウァイの二作品はほぼ同時期のものであるため、お互いの影響関係は小さいと考えられる。そのため、これらの劇中都市が同じ印象を抱かせるとすれば、それが90年代半ばの時代の空気とでもいうものなのだろう。
当時は現実世界の香港や台北、あるいはバンコクや東京でも似たような空気感は感じられたかもしれない。
逆に言えば、00年代の現在では、現実の都市でも十年前の空気を感じることはできないだろう。
押井守は04年に『イノセンス』という作品を発表した。この作品は『攻殻機動隊』の続編に当たり、同じ都市の何年後かを描いている。しかしそこにはかつてのみずみずしさは存在しなかった。ただ近未来的な退廃だけがある。
しかし、それは絶望すべきことではない。むしろ私たちはその退廃の中でどのように生きるかを積極的に考えるべきであり、映画はそのきっかけを与えてくれるものである。そして、そのことが同時代の映像作品を見る一つの意義であると思う。