暗黒のメルヘン/澁澤龍彦・編

2007/5/19-6/29
現代日本文学の幻想小説を編んだアンソロジー
編集後記において、編者である澁澤は次のように言っている。「幻想的な物語のリアリティーを保証するのは、極度に人工的なスタイル以外にはないとさえ考えている。スタイルさえ面白ければ、その他の欠点は大目に見てもよいのである。そういう次第であるから、このアンソロジーに集められた作者たちは、いずれも一流のスタイリストばかりだと称しても差支えなく、読者はここに、現代日本文学における最も質の高い、ハイ・ブラウな、人工的なスタイルの見本を一望のもとに眺めることができるにちがいない。」その観点からみれば、私は「せつなさ」と「夢幻」を表現した次の二つのスタイルが気に入った。

押絵と旅する男

「(遠眼鏡の中から偶然ひとりの美女をかいま見て)その時兄は、一目見ただけで、びっくりして、遠眼鏡をはずしてしまったものですから、もう一度見ようと思って、同じ見当を夢中になって探したそうですが、眼鏡の先が、どうしてもその娘の顔にぶっつかりません。遠眼鏡では近くに見えても実際は遠方のことですし、沢山の人混みの中ですから、一度見えたからと云って、二度目に探し出せるときまったものではございませんからね。
それからと申すもの、兄はこの眼鏡の中の美しい娘が忘れられず、ごくごく内気なひとでしたから、古風な恋わずらいをわずらい始めたのでございます」(110)

『摩天楼』

「所が私はふと自分が無人の階層にやって来てしまった事に気がついた。あんなに沢山の人々が肩をすり合わせていたのに。私はその人の群れをいといながらも、その中にまぎれ込んで安心していたのに。もうその階層には誰一人として上って来る者がなかった。山の上の歓楽地帯で、そこ迄はケーブルもあり、歌劇もホテルも涼み台も木馬も食べ物店も写真屋も何でもあるのに一歩そのさかり場を外れて奥のお寺のある杉木立の参道に足を向けるともう人っ子一人いない無気味な深山の中にふみ込んでしまったというような経験は、時折あるものだ。丁度それであった。群集のざわめきは耳底のなごりだけで潮がひいてしまったように、たよりなく別の世界になっていた。あの灰色の匂いのするもやが一層かきたてられてその階層に満ちて来ると、私は孤独の恐怖に捕われた。私はもう上に昇ることを断念しようと思った。」(317)