『ひらがな日本美術史1』 橋本治 3/3

三嶋大社の梅蒔絵手箱

 鎌倉時代は、美術史的には「写実の時代」ということになるのだろう。「王朝の美学」の後に写実の時代がやって来るということになると、この鎌倉時代というものがかなり「野暮な時代」のように思えてしまうのだけれども、しかし、「梅の花」や「桜の花」や「雁という鳥」や「紅葉という木の葉」や「月」や「蝶」が、その後の時代になってあまりにも当たり前のような顔をして蒔絵の手箱や硯箱を飾るための゛文様゛となるためには、この時代に「描かれる対象」として発見され、「写生され描かれる」ということを必要としたのだ。つまり、われわれ日本人は、鎌倉時代になって初めて、「自分達の身の周りには゛美しい愛すべきもの゛が存在している」ということを肯定したということである。絵巻物のような、描かれたものを眺める「絵」としてではなく、自分たちの道具の中に存在させて「愛する」という意味で、鎌倉時代は、初めて「花鳥風月」というモチーフを発見しえた時代なのだ。……
「我々は、鎌倉時代になるまで、゛たった一輪の美しい梅の花゛でさえも、それを゛美しい主役゛として描こうとはしなかった」――こういうせつないような゛事実゛を知っておいてもいいのではないかと、私は思う。(182)

浄土寺阿弥陀三尊像

 快慶の作った仏像には、古典的な美しさがある。「古典的」というのは、「後の時代の典拠となるような古いもの」というようなことだ。「古典的」と「古代的」は違う。後の時代の典拠となれば「古典的」だし、典拠とならなければただ「古代的」だ。つまり、「古典的」ということは、後の時代につながるというその一点において、「近代的」ということである。
 快慶の仏像は、そのように近代的で、古典的だ。理知的であるのと宗教的であるのと、この二つの矛盾する要素が見事に溶け合っている彼の仏像は、やがて一大勢力となる鎌倉新仏教が必要とする、仏像のお手本となるようなものだ。……
 後の時代は、これを安心してなぞっていればいい。なぞって、やがて信仰というものから、何も新しいものは生まれなくなる。
 運慶の像を真似ても「芸術的な二流品」にしかならないが、快慶の像を真似れば、確固とした信仰が生まれる。こういう゛お手本゛を生んで、仏像というものは日本の美術史から消えて行くのだろう。(212)

橋本治が考える美術史

゛美術史的価値゛というのはなんだろう?
 私の独断によれば、それは、「その創作の前提に模索を含むもの」である。……
 そして、「模索しながら創作をする」ということになると、ここにはとんでもなく下らない条件が一つ必要になる。それは何かというと゛富゛である。金がなければ、とてもそんな悠長なことは出来ない。つまり美術史とは、それが可能になるだけの金持ちの模索の跡を辿るものだということである。もっと簡単に話をすませてしまえば、室町時代から後の金持ちや権力者達は、その興味を仏像や寺から、自分の生活スタイルの方に移してしまったということである。室町→安土桃山→江戸に続く美術史の流れを見れば、そのことは一目瞭然である。……
 日本の美術史の途中で「仏像」や「彫刻」というジャンルが消えてしまうのは、ただそれだけのことかもしれないと、私は思う。(209-210)

ひらがな日本美術史 1

ひらがな日本美術史 1