マーラー 交響曲第九番(バーンスタイン)

 マーラーの生前最後の完成作品となる第九番。最高傑作とも言われ、オーケストラの何らかの節目や、記念的な行事の際の演奏曲目となることも多いという。
 第一楽章は、アダージョから始まる。過去の自作や多作がコラージュのように織り込まれていると解説される楽章。たしかに、一定のゆったりしたリズムにのり、いくつものモチーフが、いくつもの楽器により奏でられる。これらのモチーフがコラージュの素材なのだろうが、私にはその元ネタまではわからない。それよりは、中間部のよどんでいるような、進行感のなさが印象的だった。大地の歌で見出された、彼岸の世界の様相だろうか。
 それにつづくレントラーの第二楽章や、ブルレスケの第三楽章は、あの世から見た現実というか、音楽を表現する音楽というか、複雑な印象を受ける。この二つの楽章を描くマーラーの「迷い」も感じないわけではない。
 例えば第二楽章は、楽しげで牧歌的な音楽のはずだが、指揮者の解釈のせいか、そこには静謐な空気も加わっている。第三楽章は「劇的」というより、劇的な音楽とはこのようなものだという、少しつきはなしたような態度も見られる。そして、このような印象は私だけがもつ感覚ではないらしい。

 第二楽章は、マーラーが、ブルックナーに引き続いて愛用した、素朴なレントラーのスタイルを借用したものである。もちろんブルックナーと違い、ここでの「素朴さ」は「やや無器用に、そうしてそっ気なく」という発想記号から読みとれるように、もっと洗練され、意識化された精神の世界になじんだものが、復帰しようと努力した素朴さの音楽であり、一種の「うしろめたさ」がつきまとう。(『吉田秀和作曲家論集1』P173-174)

 第二楽章のアルカイックで無骨なレントラーから始まって、対照の楽想をまじえながら変奏を続ける音楽。無骨で、しかも洗練されており、センチメンタルなノスタルジーと距離をおいた省察とが共存している音楽。(同P261)

 最終楽章は、薄曇りのなかの恍惚ともいえるような、不思議な音楽が奏でらる。前作にも増した弦の響きの豊かさ。不安定な調整。その中で、何度も繰り返される単純なモチーフ。
 第八交響曲大地の歌で、ふたつの異なる天界を見いだした作曲家が、そこから振りかえる死の時間を表現したような音楽なのだろうか。
 あるいは、コラージュとしての第一楽章、パロディとしての第二、第三楽章を踏まえたうえでの、ロマン的な時代への壮大な告別?

 それにしても、なぜ、終楽章アダージョがバランスの一方の極として、冒頭楽章に対抗する由もない短いものとして書かれたかは、ここの音楽の、いわば純一にして単一な性格にかかわっている。ここでは、今や、対立はないのである。……終楽章全体が、ひたすらなる受身の享受姿勢で一貫しており、それ以外のものといえば、彼が向きなおって対面しようとした、その相手、つまり「大地」でしかない。あの青い輝きのかなたで、はてしなく拡がり、永遠につきることなく横たわっている大地。人間の諦念より、もっと強く永遠のものである。(同P178)

 エルヴィン・シュタインは「マーラーの音楽はたしかにロマン派に根ざし、そこから生まれたものには違いないが、晩年にいたって、彼はその複雑で分裂した感情のうえの出来事を少しも裏切らないままに、これを音楽のフォルムの形成の働きに移すのに完全に成功するにいたった」と言っているが、私は、この考え方に賛成する。主観的なものが芸術の中で客観化される。表現が形式を形作る。ロマン主義の内面を歩きながらのロマン派の克服である。(同P259)

 この作品は純粋な器楽曲である。しかし、コーダの弦の音は、何度聴いても讃美歌の「歌声」のように響く。

The Complete Mahler Symphonies

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