ユング心理学入門/河合隼雄

2007/4/28-5/17
・タイプについて
ユングも指摘しているように、実際には、自分の反対の方の人を恋人や友人に選ぶ傾向も強いのである。これを簡単に述べると、自分と同型のひとに対しては深い理解を、反対方のひとに対しては効しがたい魅力を感じて結ばれるといってよいだろう。そして、自分と反対型のひとに強い引力を感じることは、前に述べた自分の内部における個性化の過程が、外にも呼応して生じてきたものと考えられる。そのようにして、二人のひとが結ばれるが、相反する型のひとが結ばれた場合、数年後に、両者が他を理解しようとして、あまりにもお互いが知り合っていなかったことを発見して驚いたり、同型のひとが理解によって結ばれながら、しばらくたって、互いに魅力が感じられなくなって別れようと思ったりすることが多い。これら俗にいう倦怠期は、夫婦が共に、自分の個性化を目ざして歩もうとの努力を払わぬかぎり避けられぬものである。考えてみると、自分にとって親しい場所(家庭や仲間の集まり)は、自分の劣等機能発展のための練習をする適切な場所となっていることがわかる。この場面で、単なる無意識からの反応として劣等機能を暴走させるばかりでなく、それらを正面から取り上げて生きてゆくことに心がけると、少しずつではあるが発展の道を歩むことができるだろう。たんなる反応のくり返しは、発展につながらないのである。」(60-61)
・アニマ・アニムスについて
「男性の心のなかにあるこの「永遠の女性」は、外界に投影されることによって、その性質の一端をわれわれに示す。実際、男性たるものは自分を取りまく女性のなかにそれを見る(あるいは、見たように感じる)のである。すべてのひとの反対にあって苦しんでいる男性に向かって「私は信じています」との一言で勇気を与え、この男性の大きい創造力の源泉となる女性もあれば、成功の絶頂にある男性に対して、ちょっと片目をつぶってみせるだけで彼を奈落に陥れることができるのも女性である。古来から、多くの芸術家が、そのペンや絵筆によって、この永遠の女性を描き続けてきたし、現在もなおその努力は続けられているのである。そして、われわれはそのような高尚な芸術に頼らなくとも、四〇歳をすぎてから「女狂い」を始めて自分をも家族をも苦しめている男を、自分の周囲にすぐに見出すことができる。
ユングは人生の後半の重要性をよく強調する。人生の前半が昇る太陽のようであるとすれば、四〇歳を過ぎてからの後半の人生には、われわれは傾き沈んでゆくことに人生の意義を見出さねばならない。この時期になって、今までの価値概念が急激に変化するのを感じたり、生きてゆくことの意義を見失ったように感じて悩むひとも多い。地位や財産や名声を求めて、外へ外へと向かっていたひとが、このときになって今までと異なる内的な世界に気づき始める。そして、この内界にある「こころ」は、外界の女性にと投影され、四〇代の恋が始まる。このような点を考慮しないひとにとっては、その恋人が「あまりにも意外な」タイプであることに驚くかもしれない。堅いひとで通っていた学者が娼婦型の女性に心を奪われたり、ドン・ファンとして知られた男性が、ただ一人の清純な少女に変わらぬ愛を誓ったりする。これらはむしろ当然のことであり、慧眼なひとであれば、その一見愚かしく見える恋のなかに、その男性が開発させてゆくべき可能性の輝きをさえ読み取ることができるだろう。実際そのような女性に自分を縛りつけようとする自分の心のなかの因子、アニマの存在に気づき、それと対決してゆこうとすることによって、このひとはますます自分を豊かにし、統合性の高い人格へと発展してゆくことができるのである。(203-204)