『ランボー 自画像の詩学』 中地義和

2009/6/10読了
ランボーの詩を、「架空の自画像を描く運動として捉える発想」(17)が、この本のランボー理解の起点となる。
それを前提とした上で、著者はランボー詩の次のような特徴をあげていく。

・自伝的に見える詩も、真実の話ではなく、「かくもありえたであろう自分の幼少期」を編み出している。(39)
・一編の詩がしばしば批評的次元を内包している。切実な感情を表しながら一歩引いてそれを皮肉な眼で眺める距離感、昂揚を生きながら破たんを見抜いている意識の二重化、など。これらが、彼の詩の苦しさやパセティックな調子、そして読みづらさの根拠となる。(58)
・しばしば、現に存在する世界とは別に、想像力が産み出した夢幻的世界を語る。それらは容易にイメージを結ばせない力技的表現となる。「彼方から持ち帰るものに形があれば、彼は形を与えます。それが形のないものであれば形なきものをあたえます」(103)
・対象を別様に眺め、その特性や躍動感を際立たせるために、ある感覚を異種の感覚で表現する共感覚的表現。「あの歌うたう魚」(きらめく鱗の表現)、「波が鎧戸のおののきを遠方に転がしてゆく」、など。(108)
・「母音のソネ」にあるように、詩人自身や読者に、ダイナミックな連想の戯れを惹起する。それは、イメージの目録では決して無く、即座の感覚的享受、眠り込んでいた生気を解き放つ、物質主義的態度というべきものである。(160)

また、ランボー後期の詩篇イリュミナシオン』では、「イエス像の破壊的書き換えを行うことで超人的自画像を試み」ているとし、その特徴的なものとして次の点をあげている。

・人類に益する救済者としての詩人の自覚。逆に言えば、詩が他人に及ぼす効力、現実世界に変容をもたらす可能性をもたないと見限るとき、イメージの世界を飛び越えて「ごつごつした現実」に身を投じることになる。(241-242)
・キリストの「慈愛」の福音に変えて、「誇り」の福音を、超越的救済論に代えて内在的救済論を打ち出す。そのとき「われわれ」のなかから生まれ、「われわれ」自身を超出する躍動、ひとたび経験されれば今度は再発見すべき高みとして「われわれ」を牽引する力を、<精霊>をいう形象に具現させる。ここでは、異教的・東洋的雰囲気をまとった語をキリスト教のコードのなかに投げ入れ、コードを転覆する狙いが働いている。(264-265)

ランボー 自画像の詩学 (岩波セミナーブックス)

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