「自我」と「自己」
ユングは自我と自己の相互作用の必要性を強調する。人間の心の中心があまりにも自我に偏ってしまうと、それは根のない浅薄な合理主義に堕してしまう。さりとて、自我の存在を忘れてしまうと、その非日常性があまりに強いために、現実と遊離した存在となってしまう。自我と自己との間に望ましい相互関係が確立されていてこそ、自己実現の過程をすすんでゆくことができるのである。
この物語においては、主人公が狐の忠告に従うときと、自分の判断に従うときと、言うならば自我と自己との対決を通じてのバランスのあり方が見事に示されている。一番最初に思いきって狐の忠告に従った主人公は、その後しばしば自分の人間的な感情や判断によって、狐の言葉を否定しているのである。……
このような相互作用の中で狐は人間に変化し、自己は人格化された形態を表わす。(217-218)
アニマの解けないなぞ
グリムの場合もブルターニュの話も、なぞの答えは実際に生じたこと、外的な現実である。アニマは男性の内界に存在し、それは魂の領域に属していると述べた。魂の世界に住む彼女にとって、外界の現実はすなわちなぞであり、解くことはできないのである。これは外界の現実にのみとらわれた人間にとって、彼女が永遠のなぞであるのと同様である。
このなぞ解き姫は美しいが高慢であったと言われている。このアニマの高慢さをわれわれはどのように体験するだろうか。われわれ男性がアニマの存在に気づきはじめると、その内界のすばらしさに魅せられて、今まで大切にしてきたことはすべて無に等しいとさえ感じられる。人間の心と心の接触こそが第一であり、そのためには地位も財産も名誉もすべて不要であるなどと思うとき、それはそれで確かに正しいことでありながら、そこに「高慢」の危険性が十分に存在している。そのとき、アニマの、すなわち魂の高慢の鼻を外的現実のなぞが押しつぶすのである。(239)
「あれかこれか」の不毛性をこえる
これらの物語によって、姫の「素性」を知るものは、あの姫も結局はひきがえるにすぎないのだということにならないだろうか、という問題である。これは、フロイトが無意識の世界を見出したとき、人間の文化現象を解明して、それを性欲へと還元していったことを思わせる。レオナルド・ダ・ヴィンチの芸術も結局はマザー・コンプレックスの表現であるということになる。
このようなフロイトの分析が意味深いものであることはみとめるにしても、それを単純に適用して、「結局は……にすぎない」と断定してしまうことの不毛さをユングは指摘する。美しい姫を結局はひきがえるにすぎないと考えるのではなく、姫がいかに美しくあろうとも、それはひきがえるでもあり得るし、ひきがえるがいかに醜くてもそれは姫に変身し得る可能性をもったものとして、全体としてそれを見ることが必要なのである。問題を姫かひきがえるかという形態でとらえること自体がまちがっているのであり、真実は簡単に計り知ることのできない第三の道として存在している。(288)
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